徒然と

■コトバのコト 2018/10/10(Wed)

ワタシハデテイク、ワタシノナカヘ / もし、こんな電報が突然、真夜中に届いたらどうしよう? と、頼まれてもいない心配を心配した。
 「わたしはでていくわたしのなかへ」 巧い! 座布団五枚! このフレーズ、平仮名だと収まりイイが、漢字が入ると考えなくてイイ事にアタマがいく。コトバがカラダを触診し、カラダがコトバの「脈」をとる。[でていく/なかへ]の捩れが引き起こす場所の肌触りは、こんな遊びをさっきまで、独りでしていたような気がしなくもないし、日常茶飯 四六時中、出たり入ったりしてる気もする。眼前なのに包まれてる。何も無いカラッポなのに、その奥のカラッポ、カラッポの寝グラの傍に居るような怪しい位置。ダンスソロの極意なのか?  否、即興への誘い? 兎に角「わたし」は鬱陶しい!! 
肉体の出口は「空間」の入口、空間の出口は「肉体」の入口、その出入口でヒラヒラ揺れてるカーテン、あれは衣装??

 * 良いダンスを観ていると、ダンサーがその人であると同時にそのひとの分身であるように感じることもあ   る。その人がその人であるということの中に、差があるのだ ‥‥‥。 「空間のネガ」 加藤智野


 ヘンな例えだが、これが「引き蘢り」なら「わたしははいるわたしのなかへ」となるのか? 四面壁に囲まれた小部屋のような「わたし」のなかへ。「でていく」だと「なか」なのに無限な「暗がり」あるいは「明るみ」、無限なのに「果て」があるような入り交じった、分らないから進むしかないような切迫しながらも晴朗なファンファーレが鳴り響く。この「引き蘢り」と似ているのが、一昔前、念仏のように唱えられてた「集中」かもしれない、私の場合だが。
「集中」するほどに内閉とか自閉と云われるような外部を遮蔽する領域に嵌まるような、逃げ込むような様態を「集中」と称してるような一時期があった。客から見れば勝手に「籠ってる」ような風通しの悪いヘンな「押しつけ」である。なんせ「当り」欲しさに何でもヤッてた頃の事。客の迷惑省みず鼻膨らませて没入し、ヤレ内部だ、外部だと頭デッカチに騒々しかった。自己流は余分なコトばかりを思い付く時間の浪費であるが、タマに必要な浪費といふコトがあるかもしれない。

 *  舞踏は集中ではなく、拡散された集中力の持続である /土方巽 テルプシコール通信 
    正朔「舞踏馬鹿の独り言」より


■つづき 2018/09/09(Sun)

 アインシュタインが『原理』と言っているものは、芸術家が『モチーフ』と呼んでいるものです。モチーフがなければ芸術家は作品を創れませんが、作品のためにモチーフを必要とするということではありません。モチーフを「ネタ」だと思っている人にとってはそうかもしれませんが、芸術家にあっては、モチーフが作品を必要とするのです。直覚的に開示されたモチーフの存在を、そのモチーフを展開した作品を生み出すことによって、芸術家は証明しようとするのです。  「身体性の幾何学」笛田宇一郎

 前回の補足のような、そのまんま「補足」といふべきか。我田引水に都合よく引用させて頂いた。この前後、無数の科学者、数学者、哲学者が入り乱れとてもとても我が教養にては追いつかず、然りとてドンドンと引き込まれていく読書体験は劇場なら「分らないけど面白い!」といった経験あるものの、何やら取留めもない自分のしてるコトの裏が取れた、といふ気がした読書は希有の経験、何時もなら投げてる。「分らないから進んで行ける」といふべきか?

 [裸体は衣装]といふけれど、この着替えの利かない衣装が解け、コボれ、はだける着崩れを
一点で寸止めしてるのもまたカラダといふ身だしなみである。着崩れは何時も内部へ着崩れる。
   
                            


■衣装のこと 2018/08/22(Wed)

 纏まらず上手く書けずにもどかしいのだが、先だっての舞台で少し嬉しくなるようなコトがあった。その公演の案内状に書いた上星川の稽古場での大野先生の口癖だった稽古終わりの「今日は記念すべき日です!」に沿うなら少しは記念すべき日になったかもしれない。
 衣装は公演のたび事に作られ、ソレきりの衣装もあれば着つづけられる衣装もある。結果、断捨離できずの幾つもの「パンドラの柳行李」が天袋に押し込められて唸ってるような仕儀となる。何気なしに、どうといふコトもなく、逃げ込むような致し方なさで着つづけられてきたヘンな連れ合いのような衣装が今回俄に浮上してきたといふ話。
 この衣装、かれこれ40年にもわたり着つづけられ、先だっての公演「留守にでた虹」にも引っ張り出された。まさか、衣装が「またかヨッ!」と呟いたかどうかは定かでないが、この度この衣装、ミッションを帯びたような顔して暗転板付き、降り立っや見事にカラダを拉致し去ったのである。たかが衣装一枚に「降リ立っ!」はチト大仰であるが、これまでのこの衣装の迷走を思うと大仰でもない。見掛ばかりを押し付けられ表装ぼけしたお飾りの挙句、イヤイヤ「中」を埋めに懸かるものの、カラダの側に表装を「支える」粒子の謙虚さが欠片もないものだからカラダと衣装のもつれ合い40年!いつまでも馴染まない。かと云って裾さばきよろしく、見事な身捌きで着こなして見せるような衣装扱いに慣れたヒトもいるが、それがイイか? と云うとどうもそんなんじゃナイ。そういふヒトは何を着ても流暢に着こなし舌をまくが、何を着てもみな同じになる。「身ごなし」が出来上がってるとそうなるのかもしれない。

                 着る事は着られる事

 作品が「作品」の体をなすまでの発端は他愛もない思い付きとかアイデアである。予測も憶測も覚束なく心もとなくヒトに話せるようなモノじゃない。だからヤッちゃうといふワケで始まっちゃう。当然、殊更の動機やら根拠などなく「ヤッてみなくちゃ分らない!」といふ理屈だか情熱? 衝動。その衝動が歳取り、色褪せた頃、衝動が「原因」に遭遇する。「結果」と貼り出された部屋に入ると「原因」が背中を向け座ってる。「待ちくたびれた!」と振り返った。
 つまり、この衣装、作品までに40年を要したコトになる、ソリャ、待ちくたびれたに違いない。この衣装でなければイケナイ、この衣装の為の「約束の地」のような場? 座? 位置? 衣装が嗅ぎ分け、探り当てたピッタリ、余りにもぴったりの「透き間」、「ひとがた」をなぞる輪郭。この「透き間」へ滑落し続けていた時間が40年なのか、余りにもピッタリ過ぎて距離と時間が消滅していたのか。衣装といふ「抜け殻」に「カラッポ」が袖を通す。

              空蝉に入らむと待てる空気哉 耕衣


服  舟(月)は盤のもとの字で、盤は儀礼の時に使う器であるから、盤の前で何らかの儀礼をおこなうこと「服」とい   ふ。おそらくは降服の儀礼 にしたがうことをいうものであろう。降服の儀礼を終えて、服属(付き従うこと)の   職務が与えられ、その職務をおこなうことを服事という。「したがうことにしたがう、おこなう、はたらく、もち   いる」などの意味に用いる。 服飾・服従・服役・服属・屈服・降服・服毒・着服・心服・敬服・征服‥‥‥。     常用字解 白川静   


■再開、 2018/06/26(Tue)

 智チャンに忠告を受けた「更新されてホームページなの、更新されないホームページは見向きもされず、無視されて廃村に草ボーボー!」とは云っていないけれど、それに近い事は廻りからよく云われた。
 「早熟」とか「遅咲き」とか云う、それぞれ個々の時間の懸りを廻りが勝手に云ってるのだろうが、この中には早すぎて潰れてしまうヒトや、遅いだけで咲かないヒトを含んでいるのだろう。「咲く」といふコトが何を指しているのか解らない。さて、自分はどうなのか?
今回の「留守にでた虹」の近況のような案内文で大野一雄先生の「アルヘンチーナ頌」の時の先生の年齢71に自分もなって、この71歳といふ年齢をとても意識して迎えた旨の雑文を書いた。年齢だけでも先生にあやかりたいと浅ましく考えたワケじゃない。「嗚呼、アノ時先生71だったんだ」といふ風に思った時、背を押されるような想いがした、と書いた。端的に勇気づけられたといふコト。
私の「舞踏」といふマイブームも何合目に差し掛かっているのやら、毎回毎回「目前の頂き!」など叱咤激励か、けしかけてるのか、騙しすかして続けてきたか。「咲かないうちが花なのよっ!」とでもうそぶきそうな癖ばかりは抜けないものである。
 


■影のこと 2016/09/28(Wed)

 九月十日、サイプレスで松下正己の舞踏観測會、観客4人。
蛍光灯の消灯、開始。客それぞれは指定通り懐中電灯を持っている。初めは踊り手松下君が口に銜えた小型電球のうっすらとした明かりが微かに本人の顔廻りを照らすだけだが、そのうち一人、二人と客が自分の懐中電灯で松下君を照らし始める。四個の光源。白壁に投影される四つの松下君、織りなす四つの影の交錯。客の目線は松下君本人から自分の手元明かりが映し出す「影」へと移されていく。光に照らされ見えているモノでなく、見えているモノの「影」。「あの見えているものは確かに馬や牛だが、あれは暗い穴そのものなのか。その穴の中に入って見えなくなってしまうものだろう。」といふ「病める舞姫」一章最後の一行がかすめ、「影」は背中合わせに貼り付いた「裏口」のコト? などヘンな合点をし、「肉体とは存在の影ダッ!」な~んって云ってたヒトの事も思い当たった。
 焼き切れるほど「影」へ焦点を絞ると松下君は消える。音も消える。「影」が吸い込んでしまったように見えてくる。客の手元の光源の事も「影」を媒介する松下君のカラダも忘れ、まるで白壁の奥に塞き止められていた「影の微粒子」が炙り出され、滲み出し壁面の「染み」となり「染み」が犇めき「ひとがた」を結晶し、その「ひとがた」の息づかいが「影」の濃淡を揺らめかせている、と云ったような幻影を誘った。そして「影」に誰それの「影」といふ必要も興味もなく、ただ「影」であるコト、と今更のようにそう思った。


■空間恐怖6 表札 2016/09/09(Fri)

 生徒募集中! 忘れていた!このHPにあったのを見て思いだし笑いしてしまった。

 日本舞踊や華道の玄関に掛けられた立派な表札を見かける事は間々あるけれど、そのとき眼に入った表札は、表札からはほど遠い吊られっ放しの風鈴の短冊のような紙切れに時間もだいぶ経っているのだろう、褪せてしまった墨書きで微かに「お琴 教えます」とどうにか読めた。最近、何だかそんなモノばかりが眼に入る、一昨日は一昨日で「詩吟 教授」といふ紙切れが小雨のなか軒下に垂れ下がっていた。これに「浪曲」とか「三味線」でも一枚加わるとロケーションは「明治」だが、明治時代の話じゃない、昭和の44、5年頃、43年の「肉体の叛乱」を観てからといふもの何やら取留めもなく心乱れボーッとうなされ譫言のように「舞踏!舞踏!」と呟き、「網走番外地」観て高倉健になってしまった男が映画館をでてくる如く、眼は点、鼻ふくらませ、アタマの中は観念と抽象が交錯し、妙に現実離れした歩きっぷりが明けすけに世間から浮いている。感染してしまったのだ。
 時は昭和元禄! 二十歳そこそこの若造が熱病にうなされたように舞踏にうつつを抜かし浮かれてるのも無理ナイと云えなくもナイ、こういふ時に「時代だった」と謂うのかしらん。その反動か、舞踏で一山当てようと目論んでいた訳じゃないが、ものみな全て胡散臭くみえてくる時があった。殊に、たまに雑誌に載る写真とゴシップに塗れた文章から憶測するしかなかった土方さんの風貌と物言いとその周辺が振りまくスキャンダル(これがイケナイ、妄想が募る!)を嗅がされ、勝手に一人けしかけられ火照った浮き足のなかで目一杯の若造の現実主義の裁断は「舞踏」は際物、水物、流行り物、とどの詰まりは「徒花」などと前衛と風俗がハグしたような妙な塩梅に見えなくもない成り行きが眼前を掠め一抹の不安を覚えるものの、その不安がまたまた火に油を注ぐようなそそのかしとなるは手のつけようもない逆上せ上がり方、まったく情熱は鬱陶しい。そんな熱狂と錯乱の裂目から見るともなしに目にしたのが琴や詩吟の短冊、「舞踏 教えます」と爪に火をともすが如く食いつないでいる泣けてくるよな暗澹たる己が未来を予見したつもりだったのかもしれない。


■空間恐怖5 空蝉に入らむと待てる空気哉/耕衣 2016/07/11(Mon)

その場を取り繕う一切の術がない、逃れようも隠れようもなく居続けなければならない、底なしの空虚の底の昏い廊下に立たされ坊主にされたような、引き蘢り部屋を四方八方からの無数の眼に晒されてるような、行き詰まり、項垂れ立ち尽くす、脱出しようと動けばウソになるのは解っていても、居たたまれず動き、事態は更なる奈落へ、裂目へと滑落する。身じろぎ一つできない。この「棒立ち」とも「金縛り」とも「磔」とでも謂えそうな空間恐怖(惨劇!)に舞台上でしばしば見舞われた(ここには個人差がありそうだ。中には「何?それっ」といふヒトもいるかもしれない、コレは私の場合である)。「騙し」の効かない、硬直した、融通の利かない、未熟といえば未熟、素直といえば素直だが、そんな事で片付きそうもない、ワタシにとっての避け難い通過儀礼だった気がしてる。
 大野一雄は上星川の稽古場で、そんな情態を指し「アンタ!その時こそ最大のチャンスですよ!身を投げ出して!デタラメの限りを!」と云った。ピンチこそチャンス!ヤル事為す事ウソになるよな針の筵に汗降る中で「身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」である。畢竟、上星川の稽古はこの「身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」へと辿り着く事だったか? その場へ追い込みかけない限り「身を捨て」も「浮かむ瀬」もあったもんじゃない、始まりゃしない。
 何回か前の「徒然と」で高架下の子犬の「空間恐怖」について書いた、曰く「‥‥コンクリート剥き出しの基礎のままの空きスペースの何にも無いカラッポ。そのカラッポを支え、組成し、犇めいている微粒子でもいるのか、まるで、その微粒子の全てが入って来た子犬めがけて雪崩うち殺到した結果が、子犬になってるような、されてるような、空間が子犬に結晶したような、子犬が空間の正体を暴いたような、カラッポの鋳型が子犬に化けたような、カラッポの中のカラッポ? カラッポの搾り滓?カラッポの芯? 残酷なモノを見た。」とある。このカラッポの連呼に縁取られた子犬の様態は「棒立ち/金縛り/磔」空間恐怖に近いのかもしれない。知らずに、子犬に自分を見ていたのかもしれない?
 「ヤレ、空間の肉体化!肉体の空間化!」と若い時分に解った風に騒いでいたが、簡略に[カラダの出口は空間の入口、空間の出口はカラダの入口]と最近は云うコトにしている。この語調に沿うならば「棒立ち/金縛り/磔」空間恐怖とは[カラダ/空間]の出入口が閉鎖され、カラッポが閉込められ、その幽閉されたカラッポが痩せ衰え、干涸びるように消滅してゆく姿として透視されたものなのだろうか。カラッポの消滅? 無いコトがもっと無くなる? 抜け殻?

 舞踏する器は、舞踏を招き入れる器でもある。どちらにせよ、その器は絶えずからっぽの状態を保持してなければならない。過渡の充足、突然の闖入は当然霊の通過現象を起す。このことによって器は溢れ出し、からっぽになり、闖入物の小爆発によって抜け出た物の後に、続いて移体する。このような状態で励まされる空虚が、舞踏の律動なのである。舞踏は、からっぽの絶えざる入れ替えである。‥‥ 土方巽全集 美貌の青空Ⅱ 「遊びのレトリック」

追伸 土方さんまで動員して何を書きたかったのか。通過儀礼と書いたけれどトラウマの説明になったんじゃ話にならない。「棒立ち/金縛り/磔」空間恐怖の舞台がハネ、何だか笑っちゃうほど閉じ籠り「もう絶対ヤラネー」とか「チクショー!」とか項垂れ呟いてるが、ものの一週間も経つか、経たないか、その舌の根が乾くか乾かないか程の束の間、反動の波はやってくる。今度は「ヨシっ!」「次、見てろよっ!」である、呆れる! 恐いもの見たさは病癖である、直らない。直ってたら、今はないか? 粘り強い、辛抱強いが美質かどうかは知らないが、「打たれ強い」といふのに似てて好きじゃない。マゾの粘り勝ちじゃイヤなタイプなのだ。然りとて、見事な一本勝ち程の力量はない。ないならナイでココは一番虚心坦懐に「持続する志」とでもしておきますか、「ヤッてりゃー、イイてもんじゃネーヨッ!」などと陰口叩かれないよう、注意しつつ。 


■空間恐怖4 パンドラの柳行李 2016/05/27(Fri)

 半村良の「妖星伝」がそうだったけど、完結を首長くして待たれるような連載がある。最後の巻が出るのに、どの位の間があったろう、6巻から7巻完結の間13年経っていた。忘れた頃に出版されると、俄に、ズーッと待ってた自分が居た風に時間の回路が色めき立つが、未完で終えるほうが自分の中ではシックリし、納得していたりするもので、「出ちゃったか!」と内容より如何に完結したところで拍子抜けし、出版よりそれを待ってた自分の影が行き惑ったりする。

 今まで舞台の度に作った衣装ってどうなっちゃうの?またしても知恵足らずな仮想がアタマを擡げた。 衣装が棺桶一杯に詰め込まれ、ドレスの裾やらコートの襟がはみ出し、棺桶の蓋が閉り切らずに持ち上る程にも溢れ返ったりしたら縄をかけたりするのかしら、と心配し、葬儀屋は嫌がるだろうなと心配になった。そんな遺言を書き残したら、残された人達は随分と迷惑だろう。
 棺桶の迷妄は柳行李を呼び、竹行李もあった、アッ、茶箱もあった、と芋ずる式に箱が浮び、その挙句シリーズ[パンドラの柳行李]が産声を上げたが、怠惰なのか大切にし過ぎた所為か?誰も知らない自分の中だけで思い出したように細々と持続し転がしてる物件はあるもので、その一つがこの「パンドラ」で、今回それを清算しよう、仕舞っちゃおう、封印しちゃおうといふシリーズ決算セールを企画している訳。
 「終わらせなければ、次が始まらない!」など独り煽り、その實、舞台にどうにか漕ぎ着けようと必死にこじつけ、必然やら根拠やら動機から程遠いが、舞台の立ち上げをヒトに説明するために理屈やら名目を並べたところで「やりたい!」といふ欲望だか衝動の前には無意味!は若造の頃に同じ。結果によって初めて原因に辿り着く転倒が解らされたりする。解らないから進んでいける(この前提は「ヤッてみなくちゃ解らない」で、賭に似ている、否、賭である)のだ。
「神が居るから柏手を打つのではなく、柏手を打つから神が降りて来る」のクチ。
思い出し方を磨かなければ、思い出は腐るものかもしれない。


■空間恐怖3 もがく 2016/04/14(Thu)

「できる」「できない!」、「じゃ、ヤッてみろ」「お前がヤッてみろ!」と「縁の下」の闇のなかでツラ付き合わせ怒鳴り合ってる3人ほどのガキがいる。この「縁の下」の高さ20㎝、いや15㎝あるかないかの隙間に外からの陽が斜めに射込んでいる。その隙間をくぐり抜け、向う側へ出られる、出られない?と闇の中で揉めている。子供の体とはいえ、とてもくぐり抜けられそうもない、無理だ。
 子供は自分の「大きさ」を試すように隙間を見つけてはカラダを嵌め込んで得意になったりする。そうした衝動があるから隙間を見つけだすのかもしれない。ピターッと嵌まり込むと、隠れたような、大きさが消えたような、眼を瞑った中に入った気になったりする。隙間でなくても押し入れなど「狭苦しい所」に潜り込むと何故か矢鱈と自由が押し寄せ「狭いから広い」風なじゃれるようなハシャイだ気持ちにとどめようもなく突き上げられ、カラダが笑いこぼれ、転げ回るのは犬に似ている。その名残なのか「狭い所」で踊るのが好きだ。「座頭市」を観た時、座頭市が十数人を相手に6畳程の部屋での斬り合いの殺陣にいたく感嘆した覚えがある、雪隠詰めダンス! その一刃一刃の虚空の描線が無数の裂目を割いてるようにみえた。
 ジャンケンだったのか?如何な成り行きでくぐり抜けのお鉢が自分に回って来たか、今となっては思い出しようもないが、この時、生まれて初めて「死ぬかもしれない」とか「ダメかもしれない」といふ暗澹たる予感が迫って来た事を生々しく覚えている。子供心に「死に物狂い」の事態が出来したのである。
 くぐり抜ける途中の胸のあたりで隙間ピッタリに嵌まり込み、身じろぎ一つできなくなって家全体が身ひとつにのしかかってきたかのような、云いようもナイ不安と焦りはやがて「暗澹たる予感」にドンよりと覆われた。先回りして「縁の下」を抜け、外でコトの成り行きを見守り、出て来るのを待ってるガキ共から「ヤッちゃん!ガンバレ!」の声が掛かる。どのくらいの時間だったろう、エラく孤独な格闘だった。死に物狂いの果て、もがき、のたうち、地面に爪立て、どうにかこうにか腰のあたりまで這い出した時、ホッとしたのか涙が滲み、空に感謝してた。
 合田さんが「カラダが空間の寸を採る」とか、土方さんが「カラダは空間のメートル原器」といふ時、何時も「産道くぐり」のような縁の下の、この一件を憶い出す。あれはメートル原器を鍛える為の得難い体験だったのかもしれない。「動きとは『もがき出る』ものだ」といふ定理もある。


■空間恐怖2 衣装の話 2016/04/05(Tue)

なにも好き好んで、そうしてるワケではないし、「勿体ない!」が昂じたワケでもないけれど、何かといふと、事あるごとにあの「コート」には助けられた。今風に云えば私にとってこのコートはハレの舞台の「勝負服」である。ただコトあるごとに引っ張り出され過ぎ、勝負疲れ気味の「勝負服」と謂える。このコートは永い永い日常普段着としての現役生活を終えたけれど、次に舞台衣装としてのステージが用意されたのは退役軍人の戦場復帰に似ている。
 当初、まだテント素材のゴワッと、ザラッとして強張った感触の名残があったけれど時経るにつれ、生地はみるみる色褪せ、痩せ衰え、だが残骸といふほど骨っぽくはなく、搾り滓が陰干しされてるように肺病あがりのコートが衣装箪笥に昏く吊り下げられてる風に眺められた。吊られてるうちはまだいいけれど、その辺に脱ぎ捨てられていようものなら「可哀想!」を通り越し恐かった。衣装は脱ぎ捨てられると「項垂れ」たり「咽び泣いたり」しているのか、脱ぎ捨てられた直後の感染した体温が感情と化し立ちのぼり、無くしたカタチへの嘆き、行き場のなさ加減の嗚咽のように見えてきたりする。
 初めのほうこそ、外からコートを捌き、扱うような手つきや、コートの内での肌触りを吸い上げようと苦心惨憺した挙句、コートはチョッと眼を離した隙にシナーッと絡みつくような、纏いつくような、吸いつくようにしなだれ掛かるが如き馴染みの手管、気がつけば全身コートにまみれ、染められ、籠絡され、果ては「コートに隠れた」とも「コートに逃げ込んだ」とも見えない事もナイような有様にて、風に袖を通すようにコートに着こなされていた。
コートがカラダを「着こなし」、その幽かな乱れや崩れが「身ごなし」になり、見た事もない「コートのヒト」が静かに起き上がる日が来るような気がする。


 



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