徒然と

■影のこと 2016/09/28(Wed)

 九月十日、サイプレスで松下正己の舞踏観測會、観客4人。
蛍光灯の消灯、開始。客それぞれは指定通り懐中電灯を持っている。初めは踊り手松下君が口に銜えた小型電球のうっすらとした明かりが微かに本人の顔廻りを照らすだけだが、そのうち一人、二人と客が自分の懐中電灯で松下君を照らし始める。四個の光源。白壁に投影される四つの松下君、織りなす四つの影の交錯。客の目線は松下君本人から自分の手元明かりが映し出す「影」へと移されていく。光に照らされ見えているモノでなく、見えているモノの「影」。「あの見えているものは確かに馬や牛だが、あれは暗い穴そのものなのか。その穴の中に入って見えなくなってしまうものだろう。」といふ「病める舞姫」一章最後の一行がかすめ、「影」は背中合わせに貼り付いた「裏口」のコト? などヘンな合点をし、「肉体とは存在の影ダッ!」な~んって云ってたヒトの事も思い当たった。
 焼き切れるほど「影」へ焦点を絞ると松下君は消える。音も消える。「影」が吸い込んでしまったように見えてくる。客の手元の光源の事も「影」を媒介する松下君のカラダも忘れ、まるで白壁の奥に塞き止められていた「影の微粒子」が炙り出され、滲み出し壁面の「染み」となり「染み」が犇めき「ひとがた」を結晶し、その「ひとがた」の息づかいが「影」の濃淡を揺らめかせている、と云ったような幻影を誘った。そして「影」に誰それの「影」といふ必要も興味もなく、ただ「影」であるコト、と今更のようにそう思った。


■空間恐怖6 表札 2016/09/09(Fri)

 生徒募集中! 忘れていた!このHPにあったのを見て思いだし笑いしてしまった。

 日本舞踊や華道の玄関に掛けられた立派な表札を見かける事は間々あるけれど、そのとき眼に入った表札は、表札からはほど遠い吊られっ放しの風鈴の短冊のような紙切れに時間もだいぶ経っているのだろう、褪せてしまった墨書きで微かに「お琴 教えます」とどうにか読めた。最近、何だかそんなモノばかりが眼に入る、一昨日は一昨日で「詩吟 教授」といふ紙切れが小雨のなか軒下に垂れ下がっていた。これに「浪曲」とか「三味線」でも一枚加わるとロケーションは「明治」だが、明治時代の話じゃない、昭和の44、5年頃、43年の「肉体の叛乱」を観てからといふもの何やら取留めもなく心乱れボーッとうなされ譫言のように「舞踏!舞踏!」と呟き、「網走番外地」観て高倉健になってしまった男が映画館をでてくる如く、眼は点、鼻ふくらませ、アタマの中は観念と抽象が交錯し、妙に現実離れした歩きっぷりが明けすけに世間から浮いている。感染してしまったのだ。
 時は昭和元禄! 二十歳そこそこの若造が熱病にうなされたように舞踏にうつつを抜かし浮かれてるのも無理ナイと云えなくもナイ、こういふ時に「時代だった」と謂うのかしらん。その反動か、舞踏で一山当てようと目論んでいた訳じゃないが、ものみな全て胡散臭くみえてくる時があった。殊に、たまに雑誌に載る写真とゴシップに塗れた文章から憶測するしかなかった土方さんの風貌と物言いとその周辺が振りまくスキャンダル(これがイケナイ、妄想が募る!)を嗅がされ、勝手に一人けしかけられ火照った浮き足のなかで目一杯の若造の現実主義の裁断は「舞踏」は際物、水物、流行り物、とどの詰まりは「徒花」などと前衛と風俗がハグしたような妙な塩梅に見えなくもない成り行きが眼前を掠め一抹の不安を覚えるものの、その不安がまたまた火に油を注ぐようなそそのかしとなるは手のつけようもない逆上せ上がり方、まったく情熱は鬱陶しい。そんな熱狂と錯乱の裂目から見るともなしに目にしたのが琴や詩吟の短冊、「舞踏 教えます」と爪に火をともすが如く食いつないでいる泣けてくるよな暗澹たる己が未来を予見したつもりだったのかもしれない。


■空間恐怖5 空蝉に入らむと待てる空気哉/耕衣 2016/07/11(Mon)

その場を取り繕う一切の術がない、逃れようも隠れようもなく居続けなければならない、底なしの空虚の底の昏い廊下に立たされ坊主にされたような、引き蘢り部屋を四方八方からの無数の眼に晒されてるような、行き詰まり、項垂れ立ち尽くす、脱出しようと動けばウソになるのは解っていても、居たたまれず動き、事態は更なる奈落へ、裂目へと滑落する。身じろぎ一つできない。この「棒立ち」とも「金縛り」とも「磔」とでも謂えそうな空間恐怖(惨劇!)に舞台上でしばしば見舞われた(ここには個人差がありそうだ。中には「何?それっ」といふヒトもいるかもしれない、コレは私の場合である)。「騙し」の効かない、硬直した、融通の利かない、未熟といえば未熟、素直といえば素直だが、そんな事で片付きそうもない、ワタシにとっての避け難い通過儀礼だった気がしてる。
 大野一雄は上星川の稽古場で、そんな情態を指し「アンタ!その時こそ最大のチャンスですよ!身を投げ出して!デタラメの限りを!」と云った。ピンチこそチャンス!ヤル事為す事ウソになるよな針の筵に汗降る中で「身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」である。畢竟、上星川の稽古はこの「身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」へと辿り着く事だったか? その場へ追い込みかけない限り「身を捨て」も「浮かむ瀬」もあったもんじゃない、始まりゃしない。
 何回か前の「徒然と」で高架下の子犬の「空間恐怖」について書いた、曰く「‥‥コンクリート剥き出しの基礎のままの空きスペースの何にも無いカラッポ。そのカラッポを支え、組成し、犇めいている微粒子でもいるのか、まるで、その微粒子の全てが入って来た子犬めがけて雪崩うち殺到した結果が、子犬になってるような、されてるような、空間が子犬に結晶したような、子犬が空間の正体を暴いたような、カラッポの鋳型が子犬に化けたような、カラッポの中のカラッポ? カラッポの搾り滓?カラッポの芯? 残酷なモノを見た。」とある。このカラッポの連呼に縁取られた子犬の様態は「棒立ち/金縛り/磔」空間恐怖に近いのかもしれない。知らずに、子犬に自分を見ていたのかもしれない?
 「ヤレ、空間の肉体化!肉体の空間化!」と若い時分に解った風に騒いでいたが、簡略に[カラダの出口は空間の入口、空間の出口はカラダの入口]と最近は云うコトにしている。この語調に沿うならば「棒立ち/金縛り/磔」空間恐怖とは[カラダ/空間]の出入口が閉鎖され、カラッポが閉込められ、その幽閉されたカラッポが痩せ衰え、干涸びるように消滅してゆく姿として透視されたものなのだろうか。カラッポの消滅? 無いコトがもっと無くなる? 抜け殻?

 舞踏する器は、舞踏を招き入れる器でもある。どちらにせよ、その器は絶えずからっぽの状態を保持してなければならない。過渡の充足、突然の闖入は当然霊の通過現象を起す。このことによって器は溢れ出し、からっぽになり、闖入物の小爆発によって抜け出た物の後に、続いて移体する。このような状態で励まされる空虚が、舞踏の律動なのである。舞踏は、からっぽの絶えざる入れ替えである。‥‥ 土方巽全集 美貌の青空Ⅱ 「遊びのレトリック」

追伸 土方さんまで動員して何を書きたかったのか。通過儀礼と書いたけれどトラウマの説明になったんじゃ話にならない。「棒立ち/金縛り/磔」空間恐怖の舞台がハネ、何だか笑っちゃうほど閉じ籠り「もう絶対ヤラネー」とか「チクショー!」とか項垂れ呟いてるが、ものの一週間も経つか、経たないか、その舌の根が乾くか乾かないか程の束の間、反動の波はやってくる。今度は「ヨシっ!」「次、見てろよっ!」である、呆れる! 恐いもの見たさは病癖である、直らない。直ってたら、今はないか? 粘り強い、辛抱強いが美質かどうかは知らないが、「打たれ強い」といふのに似てて好きじゃない。マゾの粘り勝ちじゃイヤなタイプなのだ。然りとて、見事な一本勝ち程の力量はない。ないならナイでココは一番虚心坦懐に「持続する志」とでもしておきますか、「ヤッてりゃー、イイてもんじゃネーヨッ!」などと陰口叩かれないよう、注意しつつ。 


■空間恐怖4 パンドラの柳行李 2016/05/27(Fri)

 半村良の「妖星伝」がそうだったけど、完結を首長くして待たれるような連載がある。最後の巻が出るのに、どの位の間があったろう、6巻から7巻完結の間13年経っていた。忘れた頃に出版されると、俄に、ズーッと待ってた自分が居た風に時間の回路が色めき立つが、未完で終えるほうが自分の中ではシックリし、納得していたりするもので、「出ちゃったか!」と内容より如何に完結したところで拍子抜けし、出版よりそれを待ってた自分の影が行き惑ったりする。

 今まで舞台の度に作った衣装ってどうなっちゃうの?またしても知恵足らずな仮想がアタマを擡げた。 衣装が棺桶一杯に詰め込まれ、ドレスの裾やらコートの襟がはみ出し、棺桶の蓋が閉り切らずに持ち上る程にも溢れ返ったりしたら縄をかけたりするのかしら、と心配し、葬儀屋は嫌がるだろうなと心配になった。そんな遺言を書き残したら、残された人達は随分と迷惑だろう。
 棺桶の迷妄は柳行李を呼び、竹行李もあった、アッ、茶箱もあった、と芋ずる式に箱が浮び、その挙句シリーズ[パンドラの柳行李]が産声を上げたが、怠惰なのか大切にし過ぎた所為か?誰も知らない自分の中だけで思い出したように細々と持続し転がしてる物件はあるもので、その一つがこの「パンドラ」で、今回それを清算しよう、仕舞っちゃおう、封印しちゃおうといふシリーズ決算セールを企画している訳。
 「終わらせなければ、次が始まらない!」など独り煽り、その實、舞台にどうにか漕ぎ着けようと必死にこじつけ、必然やら根拠やら動機から程遠いが、舞台の立ち上げをヒトに説明するために理屈やら名目を並べたところで「やりたい!」といふ欲望だか衝動の前には無意味!は若造の頃に同じ。結果によって初めて原因に辿り着く転倒が解らされたりする。解らないから進んでいける(この前提は「ヤッてみなくちゃ解らない」で、賭に似ている、否、賭である)のだ。
「神が居るから柏手を打つのではなく、柏手を打つから神が降りて来る」のクチ。
思い出し方を磨かなければ、思い出は腐るものかもしれない。


■空間恐怖3 もがく 2016/04/14(Thu)

「できる」「できない!」、「じゃ、ヤッてみろ」「お前がヤッてみろ!」と「縁の下」の闇のなかでツラ付き合わせ怒鳴り合ってる3人ほどのガキがいる。この「縁の下」の高さ20㎝、いや15㎝あるかないかの隙間に外からの陽が斜めに射込んでいる。その隙間をくぐり抜け、向う側へ出られる、出られない?と闇の中で揉めている。子供の体とはいえ、とてもくぐり抜けられそうもない、無理だ。
 子供は自分の「大きさ」を試すように隙間を見つけてはカラダを嵌め込んで得意になったりする。そうした衝動があるから隙間を見つけだすのかもしれない。ピターッと嵌まり込むと、隠れたような、大きさが消えたような、眼を瞑った中に入った気になったりする。隙間でなくても押し入れなど「狭苦しい所」に潜り込むと何故か矢鱈と自由が押し寄せ「狭いから広い」風なじゃれるようなハシャイだ気持ちにとどめようもなく突き上げられ、カラダが笑いこぼれ、転げ回るのは犬に似ている。その名残なのか「狭い所」で踊るのが好きだ。「座頭市」を観た時、座頭市が十数人を相手に6畳程の部屋での斬り合いの殺陣にいたく感嘆した覚えがある、雪隠詰めダンス! その一刃一刃の虚空の描線が無数の裂目を割いてるようにみえた。
 ジャンケンだったのか?如何な成り行きでくぐり抜けのお鉢が自分に回って来たか、今となっては思い出しようもないが、この時、生まれて初めて「死ぬかもしれない」とか「ダメかもしれない」といふ暗澹たる予感が迫って来た事を生々しく覚えている。子供心に「死に物狂い」の事態が出来したのである。
 くぐり抜ける途中の胸のあたりで隙間ピッタリに嵌まり込み、身じろぎ一つできなくなって家全体が身ひとつにのしかかってきたかのような、云いようもナイ不安と焦りはやがて「暗澹たる予感」にドンよりと覆われた。先回りして「縁の下」を抜け、外でコトの成り行きを見守り、出て来るのを待ってるガキ共から「ヤッちゃん!ガンバレ!」の声が掛かる。どのくらいの時間だったろう、エラく孤独な格闘だった。死に物狂いの果て、もがき、のたうち、地面に爪立て、どうにかこうにか腰のあたりまで這い出した時、ホッとしたのか涙が滲み、空に感謝してた。
 合田さんが「カラダが空間の寸を採る」とか、土方さんが「カラダは空間のメートル原器」といふ時、何時も「産道くぐり」のような縁の下の、この一件を憶い出す。あれはメートル原器を鍛える為の得難い体験だったのかもしれない。「動きとは『もがき出る』ものだ」といふ定理もある。


■空間恐怖2 衣装の話 2016/04/05(Tue)

なにも好き好んで、そうしてるワケではないし、「勿体ない!」が昂じたワケでもないけれど、何かといふと、事あるごとにあの「コート」には助けられた。今風に云えば私にとってこのコートはハレの舞台の「勝負服」である。ただコトあるごとに引っ張り出され過ぎ、勝負疲れ気味の「勝負服」と謂える。このコートは永い永い日常普段着としての現役生活を終えたけれど、次に舞台衣装としてのステージが用意されたのは退役軍人の戦場復帰に似ている。
 当初、まだテント素材のゴワッと、ザラッとして強張った感触の名残があったけれど時経るにつれ、生地はみるみる色褪せ、痩せ衰え、だが残骸といふほど骨っぽくはなく、搾り滓が陰干しされてるように肺病あがりのコートが衣装箪笥に昏く吊り下げられてる風に眺められた。吊られてるうちはまだいいけれど、その辺に脱ぎ捨てられていようものなら「可哀想!」を通り越し恐かった。衣装は脱ぎ捨てられると「項垂れ」たり「咽び泣いたり」しているのか、脱ぎ捨てられた直後の感染した体温が感情と化し立ちのぼり、無くしたカタチへの嘆き、行き場のなさ加減の嗚咽のように見えてきたりする。
 初めのほうこそ、外からコートを捌き、扱うような手つきや、コートの内での肌触りを吸い上げようと苦心惨憺した挙句、コートはチョッと眼を離した隙にシナーッと絡みつくような、纏いつくような、吸いつくようにしなだれ掛かるが如き馴染みの手管、気がつけば全身コートにまみれ、染められ、籠絡され、果ては「コートに隠れた」とも「コートに逃げ込んだ」とも見えない事もナイような有様にて、風に袖を通すようにコートに着こなされていた。
コートがカラダを「着こなし」、その幽かな乱れや崩れが「身ごなし」になり、見た事もない「コートのヒト」が静かに起き上がる日が来るような気がする。


■空間恐怖 2016/02/19(Fri)

泳ぐ悲劇役者(抜粋)/澁澤龍彦 ‥‥大野一雄氏は、その特徴ある身ぶりで、いつも空虚のなかを泳ぎまわる悲劇役者だ。排泄物の洪水のなかで溺れ死んだディヴィーヌのように、大野氏は、ぎっしり詰った空間の虚無を掻き分け掻き分け、あたかも救いを求めるかのように、時にはしげに、時に無心に泳ぎまわる。時に溺れてしまいそうにも見える。‥‥‥

中央線高架下の側道を自転車に乗って中野から高円寺に向かっていた。もう直ぐ環七といふ辺りに差し掛かった時、子犬がヨボヨボ、ヨタヨタと横切った。彷徨ってた!と直ぐ解る、どれ程の時間彷徨っていたのか、その汚れたマルチーズのように見える白い子犬の長い毛はベッタリとカラダに貼り付き、固まりマルチーズの面影はない。逃げ出したのか、ハグれたのか、、捨てられたのか、飼い主らしきヒト影は見当たらない。
 高架下の空間は店舗、駐車場、倉庫などに使われほとんど埋まっているが、たまたま何にも使われてない空きスペースがその白い子犬の行く先に網フェンスで仕切られていた。子犬がその網フェンスの下をくぐって空きスペースの中へ入った時、子犬を追っていたこちらの視野が広がり、微視的に見ていた子犬の焦点が巨視化された。それだけの所為なのか?「歪み」とも「捩れ」とも「ズレ」とも云えそうな奇妙な光景が顕われた。夏のプールで耳に水が入った途端、鼓膜の上にもう一枚膜がはられ、全ての外界の音が断ち切られ、耳の中にピターッと閉込められ高圧の無音がキーン!と耳鳴りし、その「キーン」の渦に飲み込まれ、上から蓋されたような事が「眼」に起きた。子犬を追っていた人間的感情は凍結し、眼の無菌室に監禁され「ホラ、覗いてごらん!」と云われたような感じ。
 コンクリート剥き出しの基礎のままの空きスペースの何にも無いカラッポ。そのカラッポを支え、組成し、犇めいている微粒子でもいるのか、まるで、その微粒子の全てが入って来た子犬めがけて雪崩うち殺到した結果が、子犬になってるような、されてるような、空間が子犬に結晶したような、子犬が空間の正体を暴いたような、カラッポの鋳型が子犬に化けたような、カラッポの中のカラッポ? カラッポの搾り滓? カラッポの芯? 残酷なモノを見た。


■雑感 かとう 2015/10/12(Mon)

劇場(小屋)の玄関を一歩出ればそこには「路上」がある、ということを忘れた舞台はつまらない。


■備忘の青空5 2015/07/24(Fri)

 ついついモノの弾みで「つづく」と書いちゃったけど、つづかないので困ってる。先行き読めずにその場凌ぎに書いてるから当たり前といえば当たり前。サラサラと、徒然と書けばイイものを頭の中で何か「上手く纏めたい」とか考えてるからなのか、常日頃深く考えるといふ習慣を放棄しているからなのか、無知に加えての怠惰がアカラサマである。
 今まで終わった舞台の後にその舞台のタイトルがポツンとカラダに取り残ったような感じ、気にかかる事はなかった。確かに[途中の花]といふ言葉のセンスは好きだけれど、殊更云う程に頭抜けたセンスとも思えない。それより、こちらの言葉の「掴み」といふか「当り」が変って来たかもしれない、今までコトバでカラダを考えていたのが、少しはカラダがコトバを探るようになってきたのか、カラダ/コトバを往還するような回路。普段なら下らん、陳腐と見過ごしていたような眼がヘンな見詰め方、物珍しがり方、発見!したような塩梅になってきたのか、だったら喜ばしき事。それは他人に貰ったタイトルにせよ、自身が付けたタイトルにせよコトバの側から「眺められ、見返された」ような経験なのかもしれない。例えば何の疑いもなく書いてた「文字」に何故か俄に疑念が生じ「この『字』の元々はこうじゃない!」なんていふ不意の魔がさすような刹那があるけど、アレッてその言葉の表層の、語感の、肌触りの、意味の、底の、奥でジーッと静かにメラッてる種火のようなヤツが吹き上がっちゃったのかな?と、コトバの新鮮を考えてたら考えた事もないヘンチキなところに行着いた。
 「言葉にしたらウソになる」といふのは言葉の限界、本意の届かなさ、歯痒さ、恨みのような諺だけど、逆に「言葉にしなけりゃウソになる」といふアンチテーゼのカラ元気?を仮設すると、その諺とカラ元気を通低する耳鳴りのよな通奏底音がカラダなの?その通奏底音が時として言葉の犇めきを裂いて咲くよな沈黙を「踊る」といふの。

 


■2015年7月18日午後6時45分頃 かとう 2015/07/18(Sat)

田辺知美公演『kimiko』開演直前に受付に座っていたら、空に虹が出た。
個人的には、虹を見るのは数年振り。


 



Powered by KOMONET