その場を取り繕う一切の術がない、逃れようも隠れようもなく居続けなければならない、底なしの空虚の底の昏い廊下に立たされ坊主にされたような、引き蘢り部屋を四方八方からの無数の眼に晒されてるような、行き詰まり、項垂れ立ち尽くす、脱出しようと動けばウソになるのは解っていても、居たたまれず動き、事態は更なる奈落へ、裂目へと滑落する。身じろぎ一つできない。この「棒立ち」とも「金縛り」とも「磔」とでも謂えそうな空間恐怖(惨劇!)に舞台上でしばしば見舞われた(ここには個人差がありそうだ。中には「何?それっ」といふヒトもいるかもしれない、コレは私の場合である)。「騙し」の効かない、硬直した、融通の利かない、未熟といえば未熟、素直といえば素直だが、そんな事で片付きそうもない、ワタシにとっての避け難い通過儀礼だった気がしてる。
大野一雄は上星川の稽古場で、そんな情態を指し「アンタ!その時こそ最大のチャンスですよ!身を投げ出して!デタラメの限りを!」と云った。ピンチこそチャンス!ヤル事為す事ウソになるよな針の筵に汗降る中で「身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」である。畢竟、上星川の稽古はこの「身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」へと辿り着く事だったか? その場へ追い込みかけない限り「身を捨て」も「浮かむ瀬」もあったもんじゃない、始まりゃしない。
何回か前の「徒然と」で高架下の子犬の「空間恐怖」について書いた、曰く「‥‥コンクリート剥き出しの基礎のままの空きスペースの何にも無いカラッポ。そのカラッポを支え、組成し、犇めいている微粒子でもいるのか、まるで、その微粒子の全てが入って来た子犬めがけて雪崩うち殺到した結果が、子犬になってるような、されてるような、空間が子犬に結晶したような、子犬が空間の正体を暴いたような、カラッポの鋳型が子犬に化けたような、カラッポの中のカラッポ? カラッポの搾り滓?カラッポの芯? 残酷なモノを見た。」とある。このカラッポの連呼に縁取られた子犬の様態は「棒立ち/金縛り/磔」空間恐怖に近いのかもしれない。知らずに、子犬に自分を見ていたのかもしれない?
「ヤレ、空間の肉体化!肉体の空間化!」と若い時分に解った風に騒いでいたが、簡略に[カラダの出口は空間の入口、空間の出口はカラダの入口]と最近は云うコトにしている。この語調に沿うならば「棒立ち/金縛り/磔」空間恐怖とは[カラダ/空間]の出入口が閉鎖され、カラッポが閉込められ、その幽閉されたカラッポが痩せ衰え、干涸びるように消滅してゆく姿として透視されたものなのだろうか。カラッポの消滅? 無いコトがもっと無くなる? 抜け殻?
舞踏する器は、舞踏を招き入れる器でもある。どちらにせよ、その器は絶えずからっぽの状態を保持してなければならない。過渡の充足、突然の闖入は当然霊の通過現象を起す。このことによって器は溢れ出し、からっぽになり、闖入物の小爆発によって抜け出た物の後に、続いて移体する。このような状態で励まされる空虚が、舞踏の律動なのである。舞踏は、からっぽの絶えざる入れ替えである。‥‥ 土方巽全集 美貌の青空Ⅱ 「遊びのレトリック」
追伸 土方さんまで動員して何を書きたかったのか。通過儀礼と書いたけれどトラウマの説明になったんじゃ話にならない。「棒立ち/金縛り/磔」空間恐怖の舞台がハネ、何だか笑っちゃうほど閉じ籠り「もう絶対ヤラネー」とか「チクショー!」とか項垂れ呟いてるが、ものの一週間も経つか、経たないか、その舌の根が乾くか乾かないか程の束の間、反動の波はやってくる。今度は「ヨシっ!」「次、見てろよっ!」である、呆れる! 恐いもの見たさは病癖である、直らない。直ってたら、今はないか? 粘り強い、辛抱強いが美質かどうかは知らないが、「打たれ強い」といふのに似てて好きじゃない。マゾの粘り勝ちじゃイヤなタイプなのだ。然りとて、見事な一本勝ち程の力量はない。ないならナイでココは一番虚心坦懐に「持続する志」とでもしておきますか、「ヤッてりゃー、イイてもんじゃネーヨッ!」などと陰口叩かれないよう、注意しつつ。