コトバのコト

ワタシハデテイク、ワタシノナカヘ / もし、こんな電報が突然、真夜中に届いたらどうしよう? と、頼まれてもいない心配を心配した。
 「わたしはでていくわたしのなかへ」 巧い! 座布団五枚! このフレーズ、平仮名だと収まりイイが、漢字が入ると考えなくてイイ事にアタマがいく。コトバがカラダを触診し、カラダがコトバの「脈」をとる。[でていく/なかへ]の捩れが引き起こす場所の肌触りは、こんな遊びをさっきまで、独りでしていたような気がしなくもないし、日常茶飯 四六時中、出たり入ったりしてる気もする。眼前なのに包まれてる。何も無いカラッポなのに、その奥のカラッポ、カラッポの寝グラの傍に居るような怪しい位置。ダンスソロの極意なのか?  否、即興への誘い? 兎に角「わたし」は鬱陶しい!! 
肉体の出口は「空間」の入口、空間の出口は「肉体」の入口、その出入口でヒラヒラ揺れてるカーテン、あれは衣装??

* 良いダンスを観ていると、ダンサーがその人であると同時にそのひとの分身であるように感じることもある。その人がその人であるということの中に、差があるのだ ‥‥‥。
 「空間のネガ」 加藤智野

 ヘンな例えだが、これが「引き蘢り」なら「わたしははいるわたしのなかへ」となるのか? 四面壁に囲まれた小部屋のような「わたし」のなかへ。「でていく」だと「なか」なのに無限な「暗がり」あるいは「明るみ」、無限なのに「果て」があるような入り交じった、分らないから進むしかないような切迫しながらも晴朗なファンファーレが鳴り響く。この「引き蘢り」と似ているのが、一昔前、念仏のように唱えられてた「集中」かもしれない、私の場合だが。
「集中」するほどに内閉とか自閉と云われるような外部を遮蔽する領域に嵌まるような、逃げ込むような様態を「集中」と称してるような一時期があった。客から見れば勝手に「籠ってる」ような風通しの悪いヘンな「押しつけ」である。なんせ「当り」欲しさに何でもヤッてた頃の事。客の迷惑省みず鼻膨らませて没入し、ヤレ内部だ、外部だと頭デッカチに騒々しかった。自己流は余分なコトばかりを思い付く時間の浪費であるが、タマに必要な浪費といふコトがあるかもしれない。

*  舞踏は集中ではなく、拡散された集中力の持続である /土方巽 テルプシコール通信
  正朔「舞踏馬鹿の独り言」より