パゾリーニ監督がオイディプス神話を題材に撮った映画『アポロンの地獄』のラストシーンで、そうとは知らずに父を殺し母を犯した自身の罪を識ったオイディプスが自ら両目を潰して盲人となりあてもなく荒野に彷徨い出す、そこまでは神話の通りなのだが、そこで一転場面が古代ギリシャから現代のイタリアに移って、近代的な建物が建ち並び舗装された道路を自動車の行き交う現代の街路を彷徨うオイディプスの姿が映し出される。このラストの解釈は色々あるのかもしれないが、極単純に考えれば、「あてもなく彷徨い出したオイディプスは何の解決も得られぬまま数千年の時空を超えて今も彷徨い続けているのです」という話で、だとすればそれはたとえば弘法大師は今も衆生を救うために四国八十八箇所を巡り続けている、という伝説にも通じるものがあり、また、つげ義春の名作『李さん一家』の最後の一齣「実はまだ二階にいるのです」に似たトボケたユーモアすら感じる。
2015年4月10日にテルプシコールで行われた武内靖彦公演『途中の花』は、事前の稽古に立ち会う機会があり、そこでアドバイスを求められたぼくは、冒頭、どこからやってきたのかわからない男が彷徨う場面で、ゲームセンターのような音を入れてはどうか、と提案した。その時頭にあったのは『アポロンの地獄』のラストシーンのイメージだ。数千年の時を超えて彷徨い続ける正体不明の男が、現代の渋谷辺りに流れ着き今時の日本の若者たちで溢れるゲームセンターに迷い込んでいるような時空錯誤。その案は一景で断続的に差し込まれる電子音として採用された。
武内靖彦が様々な舞台、様々な場面で踊っても、舞台上にいる男は常に同一人物だ。が、それは「武内靖彦」ではない。誰かではあるのだが、誰であるのかはわからない。彼自身がわからないからだ。一言でいえば、記憶喪失者である。どこかから来たのは確かだが、どこから来たのかはわからない。貴種流離譚の、正体が明かされる前の段階を彷徨い続けているような。武内の舞台がどこかしら神話や悲劇めいた深刻さを帯びているのはそのためだ。もっとも「貴種」であるかどうかはわからないが。
武内靖彦は大野一雄門下とはいえ、大野の弟子として出発したわけではない。大野の門を叩くより先に独りで初舞台を済ませている。三年ほど属した大野門も舞踏家武内にとってあくまで途上のことだ。それ以前もそれ以後も、アカデミックな舞踊のメソッドを学んだわけでもない。プロフィールには、「土方巽の肉体の叛乱を観て衝撃を受け踊り始める」とあるが、土方に師事したわけでもない。つまり彼は、ある時いきなり踊り始めたのだ。徒手空拳でいきなり踊る、ということを促した最初の他力が土方であったということだ。話を聞けば、大野一雄の稽古でも、踊りの具体的なノウハウを教わるようなことは一切無かったという。ただそこに大野一雄がいる前で何の手掛かりもなく独自で踊ることをひたすら模索させられ続けた。いわば踊ることよりまず踊れないこと、踊れなくともそこにいなければならないこと、を学んだのではないだろうか。こうすれば踊れます、こう踊れば舞踏家になれます、と教えてくれる今の「舞踏」とは対極に立つ舞踏家が武内靖彦である。
令和元年12月13・14日の2日間にわたって行われた武内靖彦舞踏ソロ『着ラレル 静態系1』(スタジオサイプレス)では武内の「構え」に以前とは微妙な変化が見られた。
冒頭、いつものように、どこからか舞台に至り着いた男のあてのない歩行から始まる。この「あてのない」は慣用句ではない。三間程度の舞台を横切るのに5分も10分も費やす、「武内靖彦の歩行」と称される程特徴的で時にはマンネリズムと目されることもあるこの歩行の特徴は、目的地を持たない歩行であるということだ。行き先を持たない足を一歩出すごとに結果として前方に向かうが、どこへ向かう先があるわけではなく、ただ足の裏の接するここから又ここへと運ばれる結果として気が付くと何処かにいる。目的地をもたないのは、そもそも自分がどこにいるのか、自分が何者かがわかっていないからだ。それで想い出すのは「わたしはどこから来たのか わたしは何者か わたしはどこに向かっているのか」というゴーギャンの名作にも刻まれた有名なフレーズだが、それは一言でいえば「記憶喪失」ではないのか?それは人類の種全体の命題であると同時に、「自身がこの世に産まれ出たまさにその時のことを決して記憶していない」全ての個人の命題でもある。人間はまず最初に「記憶喪失者」として出発するのだ。いささか大仰に過ぎる物言いに聞こえるかもしれないが、「まず動機があって踊っているのではない。舞台の上で踊りながら動機に辿り着くことを目指すのだ」というのは武内自身の言葉だ。舞台上の武内靖彦は、どこから来たのか、ここがどこなのか、わからない。確かなことは、今「ここ」にいることだ。ここで、歩いているというよりも、茫然と佇んでいる。佇んでいることが、気が付くと星や月が周天している、そのコンパスの足元みたいに移動している。ずっとここにだけいると、ここがここですらなくなってしまうからか。武内靖彦の歩行はそういうものだ。
ところで、記憶喪失者でも覚えていることは何だろう?自分の名前を忘れていても自転車には乗れたりする不思議。
『着ラレル』の話に戻ろう。自宅の一部であるスタジオサイプレスは武内にとっては庭だ。その空間の機微を知り尽くしている武内の歩行はあてもないとはいえ、ベテランの漁師が魚を捌く時のような見事な軌跡を描く。地面に隠された脈を辿ることで、床より底に見えない色が潜在していることを浮かび上がらせるような軌跡。要所要所で、中空に、不意に思い出される記憶のように、踏切の音が束の間差し込まれる。その不意に間近に迫ってくる遠い響きの中に、どこかわからないが、自分がどこかにいる、そしてかつてはどこかにいた、ということが告げられている。
武内の所作の中には時折独特の構えがある。方向転換して新たな方向に向かう時や、踊りを次のテンションに鼓舞しようとする時などに現れるフォトジェニックなその姿は一見恰好をつけているようでもあり、イヤミとまではいわないがやはりナルシシズムの表れのように見えて、またその姿の決まり方が、舞台をビジュアル的に、ようするに「見せて」しまうきらいがあった。ところが今回の舞台では違っていて、その構えの姿かたちは以前と別段変わっていないのだけれど、それがナルシシズムからくる恰好付けではなく、たとえれば暗闇だとか未知の何者かに対した時の動物の防御態勢のように見えた。それだけ、舞台上の彼のいる空間の不透明さが増していたのだ。武内の絵姿ではなく彼を取り巻く空間の不穏さを析出する、何かが現れるかもしれない無音に耳を傾けた時にいつしか身についていた防御姿勢が現れるような構えになっていて、静止画ではなかった。この構えの印象の変化が、今回の舞台での一番のトピックだった。
2017年5月27・28日に松下正己、玉井康成、日高明人の三人のダンサーを招いて行われたスタジオサイプレス企画『ここも誰かが死んだ場所』2日目、武内はプログラムにはないが、開演前や幕間にスタジオに迷い込んで来た得体の知れない男、という役どころで登場した。まだ開演前の客同士談笑しているなごやかな会場で、不意に提灯を手にして現れたコート姿の不審な男は、自分がどこにいるのか、確かめるように辺りを眺め、次のプログラムで玉井康成と共演する音楽家望月正人によって既に舞台に設置されてあった楽器ディジュリドゥを、怪訝な顔つきで物珍しそうに眺めてからまた会場外へ去っていった。ああ、舞台上の武内靖彦は記憶喪失者なのだ、とはっきり感じたのはその彼の眼差しを見た時だったかもしれない。目にするもの一つ一つが、見覚えがあるのに何だかわからない、あるいは逆に、見覚えがないのに知っているような気がする。記憶喪失者が実家に帰った時のような眼差し。既知の未知性。初めて見る光景の筈なのに見覚えがある、という感覚をデジャヴ(既視感)と言うが、逆にいつも見慣れているものなのにそれが何だか得体の知れないもののように奇異に見えてくることをジャメヴ(未視感)と言う。それで思い出すのが、2011年5月にplanBで田中泯構成演出で行われた武内靖彦公演『舞踏・制度・林檎』だ。その中盤辺りで、舞台上に奥に上がるように造られた斜面の上を、仰向けで背中でズリズリ這い上がる。その場面はまだ、個々の筋肉の動きだとか、視線を引っ掛けてダンサーの輪郭を掴むことができる、つまりそこで行われていることと人物を一応理解していられるところがあったのだが、一番上まで上がり、這っていたのが立ち上がってフッと息を落とした瞬間、そこに誰だかわからない誰かが居た。いや、それが武内靖彦であることは百も承知だ。そのことを忘れているわけではない。にもかかわらず、誰だかわからない何者か。これはわかりにくいイメージでしか言えないが、本体があってその影がある、というのではなく、本体と影が一緒くたになったような、見えているのによく見えない、人の形をしているのにその輪郭が内側に溶けてしまっているかのような何者か。その奇妙な感覚は、数えきれない程武内靖彦の舞台を観てきた中でも特に忘れられない一場面だ。
もっとも、そこまで印象的なことは稀とはいえ、武内に限らず、いい踊りを観た時には少なからずそのような感覚はあって、いい踊りを踊っている時のダンサーは誰であっても誰と名指せない誰かになっている。
2011年10月に開催された武内靖彦40周年記念独舞リサイタル『舞踏よりの召喚ー20世紀、牡丹。』(座・高円寺)は四景から成っているが、その第三景(プログラムには記載されていないが武内はその景を「新しい砂漠」と名付けていた)、とくに全三日公演の内の二日目のその景は圧巻だった。座・高円寺のダダッ広い舞台上には下手寄りの床にぽっかりと穴が開いている他に何の装置もない。穴から這い出してきたダンサーの前に広がっているのはまさに砂漠のように手掛かりの無い空間で、音楽も無いのでリズムや旋律に乗って踊ることも出来ない。とりあえず踊りらしく振る舞う為の舞踊の定型も無い。そこで、黒いボロボロのセーターを着た男は、ただ歩き、倒れ、蹲り、何やら、急に手を広げたり、断片的な意味不明な動作が続く。その、脈絡から放逐されたような行為の数々はまるで文章中に間や沈黙を表わす「・・・」が転がり蠢いているようでもあり、人類が絶滅した後に地上に一人取り残された男のサバイバルを眺めているようでもあった。が、その無い無い尽くしの地平の上でも一個の人間の体がそこで生きて動いていることを通して、さっきはそこにいた、さっきはそうした、さっきはそこでこうしていたところから今はここでこうしている、ということを通して、無味乾燥の舞台の上に次第に「昨日」のようなものが点滅しはじめる。たとえば世界が始まってから10分しか経っていない時には10分でも「歴史」かもしれない。しかし一人しかいないところなので、それを「歴史」として合意する何者もおらず、あった筈の歴史は「会話」が始まる頃にはもう見えない。ただそれを知っているからだがその時からあったものとしてそこにある。そういえば、舞台上の武内靖彦の佇まいにはいつも「無言」を感じる。「沈黙」ではなく「無言」。無言と沈黙の違いは何だろうか。辞書上の定義は知らないが、沈黙と違って無言は、言葉に溢れた世界の中で黙っている、何か言い出しそうで言わない、言葉直前の何かが内に蠢ていながら噤んでいる、という、沈黙から言葉への「途上」に立っている状態が無言だろう。武内がしばしば舞台衣装として愛用している、全身をすっぽりと包むコートはその「噤む」ということの象徴だ。が、「新しい砂漠」では逆に言葉のあり得ない世界でコートも着ていない、言葉以前の何かが、まだ形を成していない言葉の胎児が産み落とされてしまったような何かが、つまり生身が、ゴールの見えないところで戦っているような敗残性の閃きがあった。それは、自分が産まれ出た時のことを覚えていない者が、自分より先に既に始まってしまっている世界と立ち向かっている、そして、そのからだにいつの間にか(記憶喪失者でも覚えていることのように)身についているものは、自分より先に始まっている世界の方で形作られているものなので、それはつまりは自分の身をもって自分のからだに立ち向かっていることにもなる。不測の外界と不測のからだがクラインの壺さながら相嵌入している。「測れなさ」を測り続けることで未知と既知がスパークする。だからダンサー武内靖彦は、自分が準備したのでない環境で踊る時の方が輝くのだ。田中泯構成演出による『舞踏・制度・林檎』、ダンス白州での数々の野外での踊り、同じくダンス白州での田中泯や石原淋との共演、シアターイワトでの五井輝とのデュオ、新潟の「大地と水の芸術祭」における原口典之の美術作品とのコラボ等々、ここ十~十五年程の武内の活動の中でも特筆すべき踊りの多くが、彼自身が準備した公演以外のものであるのはその為だ。
「新しい砂漠」の中で格闘する生身が分泌する汗のような時間は、次第に、世界は10分前に始まったのではない、世界はこの劇場の外にも広がっている、という「外」を反射し始めてこの景はクライシスを迎える。
再び『着ラレル 静態系1』の話。後半、幕間に助手によって舞台奥に吊り下げられた、壁の大部分を覆う大きな和紙のオブジェの前で、男が坐り込んでいる。大分経って不意に、ノスタルジックな雰囲気を持った歌唱曲『お菓子と娘』が流れ始める。次いでやはり感傷的な雰囲気を持った『アニバーサリーソング』がインストゥルメンタルで2回。舞台中央で、男は音楽の中で最初はじっくりと、次第に激しく痙攣的に動き始め、後ろに吊り下げられた和紙を揺らしたり、初日は確かその和紙と壁の間に潜り込んだりしたのだったか、で舞台はエンディングを迎えるのだが、この場面の具体的なことを実はあまり憶えていない。ただ、初日と二日目でこの場面の印象がまったく違ったことは憶えている。初日は、前半は先に述べたように舞台上の主人公である男が野生動物めいて身構えるような不可知な空間が成立していた中で、後半になって急に今ここの現場から離れた、あらかじめ準備してあったエンディングが取ってつけられたような、空間がそこで全て見渡せるような安全なところに落ち着いてしまった。逆に二日目は、まず前半が初日に比べればたった一日でも幾分手練れていて荒っぽい緊張感はいささか減じていたとはいえ、後半は曲が流れはじめてもそれまでの現場の時空間のテンションが持続していて、取ってつけた感はなかったが、その分そもそもここでこの曲が流れる必要があるのか?という、曲が無理矢理貼り付けられているような場違いな感じがあった。ようするに両日ともこのエンディングに至る場面はうまくいっていたとは言えない。
じっくりと観客を引き込んでいく、表面張力を零さないように注意深く運んでいくような冒頭があって、次第に飽和状態をギリギリまで高め、クライマックスにそこにプツッと針を刺して決壊に至り、場合によってはその後になにがしか余韻を残すようなエンディングを置く、という構成が、以前の武内の自主公演の一種の定型だった。近年、自身のホームグラウンドであるスタジオサイプレスでのアトリエ公演を重ねる中で、その定型からかなり自由になってきたとはいえ、一つの「作品」として改まって構成を組み立てる時には、今でもしばしば、その通りでなくともその定型の尻尾が顔を出す。これはおそらく、徒手空拳で頼りもなく踊る、ということを続けていく心許なさの中で、それでも自分は何がしかの舞台と呼べるものをやった、という形を付けたい、手応えを得たい、ということの現れなのだと思う。けれどもぼくには、武内がその心許なさの只中で見えない水中を探るように手を濡らして身につけてきた踊りの本領を、武内自身がわかっていないように思えてならない。その構成によって導き出される絵に描いたようなクライマックスだとか、ファンの間で武内節と呼ばれるような絵姿のような恰好良さだとか、テイスティなロマンティシズムや韜晦だとか、そういったことの中に武内靖彦の本領があるのではない。この構成の何よりの欠点は、舞台の行く末を予め一つの方向に用意してしまっていることにある。しかし武内靖彦のからだは基本的に「行方知れず」なのだから。そしてその「行方知れず」のからだはいつだってここにあるその「ここ」が「舞台」なのだ。
「タケ、未知との遭遇じゃなくて、既知との遭遇だよな!」
丁度巷でスピルバーグの映画『未知との遭遇』が話題になっている頃、土方巽が武内靖彦にそう言ったそうだ。どのような文脈の中でその言葉があったのかは知らないが、その話を聞いた時、ああ、それはまさに武内のダンスの本質を表しているなあと思った。
自分より先に自分の居る世界はあった。そして自分のからだは自分より先にその世界の方に属している。だから自分と世界との両方にわたるものとして、その境界がからだで在る。記憶喪失者が実家に帰った時のように、見慣れたものの中の未知性、逆に初めて出会うはずのものの中にある懐かしさに出会う。
それはまだ目覚めて間もない子供の感覚だ。昨日のこれと今日のこれは、同じ物だけど違う物。違う物だけど同じ物。それは日々成長していく自分のからだ自体がまずそのような物だ。既知の中にある未知と未知の中から来る懐かしさ。世界の珍しさ。近年の武内靖彦の踊りの中に、ベテランの熟練と同時に、それ以上に「初々しさ」を感じる人は実は多い筈だ。来年踏業50周年を迎えるキャリアを持って何時よりも初々しくなれる方向性を持っている、ダンサー武内靖彦の凄さはその一点にある。
「動機があって踊るのではない。舞台の上で踊りながら動機に辿り着くこと目指すのだ」だとすれば、ダンサー武内靖彦の踊りが向かう先は、「記憶すらされていない」方向だろう。その頃の武内靖彦(という名前も知らない)のからだは、立っているのだろうか?