(あのお椀は一体何なんだろう?)
2020年1月12日、成城学園前にある第Q藝術で3日間に渡って行われた企画『身体の知覚』での田辺知美のソロ、冒頭、客席の後ろをグルッと巡って、平台が瓦礫のように積まれた舞台に至る、その間もその後も舞台の間終始その手に持たれていたおそらくは空っぽの朱塗りのお椀、あれは一体何なんだろう?いや、お椀はお椀なのだが、でも、一体何だ?と思いながらずっと観ていて、ある時、ふと、ああ、あれは、「先祖」だ、と同時に、「死児」でもある。どちらであれ、つまりは、「既に(未だ)生きていない命の器(骸)」だと直観した、それはぼくの妄想に過ぎないのだが、そのような妄想の降りてきたわけはある。話はぼくが初めて田辺知美の舞台を観た頃に遡る。
たとえば隕石はその成分を適切に分析する方法と技術を持っていればそこから様々な宇宙の情報を読み取ることが出来るが、そのようにこちらからアプローチしなければどこにでも転がっているただの石ころの一つに過ぎない。
以前の田辺知美の踊りもしばしば「ただ寝てるだけ」「全然動かない」などと言われることがあった。以前というのは、ぼくが彼女の踊りを初めて観始めた十七~十八年前のことだ。確かに、その頃の彼女の踊りは「寝ているーモゾモゾしているー立ち上がるー数歩歩く」で、最後になにがしか(たとえば手にしていたザクロを潰すとか)あったりなかったりして、おしまい、という構成が多かったので(勿論そればっかりだったわけではないが)、表現というものを向こうから積極的にアプローチしてくれるものと思っている者からすれば、ほとんど何もしていないかのように見えるだろう。しかし、だからといって、彼女のからだが先の隕石の譬えのように、こちらから積極的に読解を掛けなければ何も表さない「物言わぬかたまり」かと言えば、実はそういうわけでもない。彼女のからだは、物言わぬかもしれないが、鳴る。
その頃の田辺知美の舞台の印象を思いつくままに並べてみれば、まず、静かである。それは無音ということではなく、深夜の静けさの中でこそ(コトリ・・・)といった微かな物音が響くように、あるいは遠くを走る車の音や冷蔵庫のブーンと鳴る音が届いてくるように、こちらに微細な響きを聴き取るかのような注視を誘う。田辺知美の踊りは視る踊りというよりは、聴く踊りだ。してみると、彼女の踊りは微細なノイズに溢れ、「何もしない」「動かない」どころか、むしろ彼女が舞台上でフィックスしているのを観たことがない。常に「じっと動いている」。時に発酵するように、時に地層の蠢くように。その基盤の上で、うつぶせあるいは仰向けで寝ている彼女の四肢は、不意に眼に見える大きさで動く。それは速い動きであっても緩慢な動きであってもかかわらず「不意」であるそれは、たとえば犬の尻尾がそこだけ別の生き物のように流れと関係無くピョコッと動く時のような、質的な不意感。彼女の動くすべてがしっぽのようで、全身が末端である。その末端の動きから、観客は、その動きを生み出している「元」を探ろうとする関心に導かれる。眠っている人の寝顔の表情の変化からその人が見ている夢を想像するように。彼女の内側に、外にいる我々とは違う時間が流れている何か出来事があって、その反応が末端に現れる時、内側の時間と外側の時間に差があるので「不意」化する。あるいは、定まった中心を持たず蠢くその体躯は、その内側にある見えざる地形を辿っているかのようにも見える。いつしか観客はその内と外の間にある「差」の領域に入り込んでいる。そこに何があるのかというと、何があるということではなく、ただ正体不明の動きの感触のようなものが飛び交っている。奇妙に明るいが、それは照らされた明るさではなく、「暗さ」というものも無いことからくるような明るさで、非現実的な明るさだ。それは夜空の星の無いところの闇を反転させたようでもあり、不意に流星の駆けるように、「外から到来する何か」を待つ場所でもある。その空間が、田辺知美の踊りを呼び込む空間であり、同時に、舞台上の田辺知美と客席の観客の間の空間の抽象でもある。ようするにその空間は「間」なので、彼女の内部にある何かではなく、我々観客のいる外部でもない。待っているように、観客はすでに起こっている踊りを観ているようでもあり、待っていたように、田辺知美は既に踊っているようだ。待っていたから訪れるのではない。不意に訪れているので、まるで待っている、あるいは待っていたかのような状態が充満している。そこで田辺知美は、最も能動的な受動態をしている。先に隕石の譬えを出したのは、そこで彼女はここ(現世)ではないどこかの情報を発しているかのように受け取れるからだ。こちらから伺えない、彼女の内部から通底するどこかの情報の消息が伝わって、時間差を経て彼女の末端の動きに現れている。
そして舞台の後半で、彼女のからだがある方向性を持って動き出し、ついに立ち上がる、それは目醒めではなく、先の寝顔と夢の譬えでいえば、具体的なイメージを結ぶ以前の夢の成分が、彼女のひとの輪郭いっぱいまで滲み出し、ついに立ち上がる、というように感じられる。
個別のどの舞台というのではなく、その頃の田辺知美の踊りの印象は全体的に、ぼくの中でそのように記憶されている。寝姿であることと受動態であることから、彼女の踊りはとかく病床やエロティックな場面のイメージで捉えられることがあったが、彼女の踊りの独自性はその構造にあって、寝ているか立っているか、ということに本質があるわけではない。ただ、内部の地形を辿るために、最も接地面の多い体勢が相応しかった、ということが大きいのではないだろうか。
くどくどしく抽象的なイメージを書き連ねたが、梁塵秘抄の有名な歌、
ほとけはつねにいませども うつつならぬぞあわれなる
ひとのおとせぬあかつきに ほのかにゆめにみえたもう
が、もっともその時期の田辺知美の踊りを端的に表現しているように思う。この歌を知った時に、ぼくは、あ、これは田辺知美の踊りのことだ、と思った。
あの時のあの踊り、この時のこの踊り、といった具体的な公演の印象を思い起こせば勿論今書いたことに収まり切らない色々なことがあるのだけれども、「あの時期の田辺知美の踊り」とかなり乱暴に纏めたのは、その後の田辺知美の踊りが、その頃とは変わった印象が強かったからだ。勿論、表現者が長く活動を続けていく内に変化していくのは至極当然のことで、むしろ舞台を観続けるということは、「ひとが変化するのが見たい」という動機でからでもある。あの頃の踊りは良かった、とか、そこに帰れ、などと言うつもりは毛頭無い。変化するのはそれ自体は常に正しいことだし、その結果が観客の一人であるぼくに望ましくない形であれば、黙って観に行くのをやめればいいだけなのだ。つまりはぼくはここ数年の田辺知美の踊りにずっとある不満を持ち続けて来たのだけれど、それでも見続けてきたのは、ある期待がずっとあったからで、その期待というのは、以前のような踊りが見たい、ということではないということだ。
紆余曲折をあえて端折っていえば、ここ数年の田辺知美の踊りは、先に書いたような重層性が消え、結果として起こる動きではなく、意図的に動こうとしているようにしか動いていない、と見えることだ。なぜそのようになったのか、という事情はある程度推測出来るのだけれど、ともかくも田辺知美は以前の自身の踊りにあるマンネリズムを感じ、それを打破しようと色々試みる必然の成り行きがあったのだろう。その結果の迷走であればそれも必然でよいのだけれど、ただずっと気になっていたのは、彼女のセンスの良さだ。彼女は、センスが良いのである。ただ、それは、例えば障子の破れた所を千代紙で継ぎ当てるといったような、生活のアレンジメントというか、『暮らしの手帖』的なというか、ようするにこの暗鬱な世の中をちょっとした工夫でやり過ごしていくライフスタイルというような、そういったセンスの良さが、彼女の踊りの所作や身ごなしの中に感じられる。それは勿論彼女の中に元々あった要素なのだけれど、そういった保守的なセンスの良さは、踊りのちょっとした味付けには活きても、それが基調になると趣味的な舞台になってしまうのではないか。それで「うまくわたっていく」というような。しかし舞台は世間ではないし、踊りは処世術ではないのだから。
うまくいかない時の彼女の踊りには、眠りたいのに眠れない、眠れないからジタバタして、ジタバタするから余計眠れなくなる、というようなもどかしさ(待つことが出来なくなっている感じ)があり、それ自体は苦しくともそれは不調の域である意味正直でもあるのだが、それでも、なんとはなしに舞台が形になっているかのように見えてしまう田辺知美の上手さ、センスの良さ、の方が気になって、何故ならば、それは人々に受け入れられ易いものなので、そういう形で「流通する」ダンサーになっていってしまうのではないか、というようなさみしさを感じた。
土方の『病める舞姫』を題材にした、川口隆夫との共同作品『シック・ダンサー』は何度も観ているが、あの作品でいつもアンビバレントな気分になるのは、川口と田辺というまったく違う文脈と志向性を持っていると同時にそれぞれダンスとダンス以前のパフォーマンス性といったものを自身の表現に相応しく塩梅し独自の舞台を作っている二人の出会いは確実に面白いし、作品そのものは舞踏のステレオタイプのイメージを大胆にぶち壊す方向性を持っていながら、田辺知美の担当する前半パートが、いかにも舞踏のステレオタイプとしての病体のイメージをビジュアル的に演じてしまっていることだ。それが、後半の川口の破天荒さと拮抗するのではなく、やはり保守的な要素になってしまっている。『シック・ダンサー』は、舞踏のステレオタイプとしてのパブリック・イメージを、単に否定するのではなく、自分勝手というか、作品勝手に切り裂いて使ってしまっているところに凝り固まった舞踏を相対化する意義があるのだとしても、前半の絵に描いたような病体は、あまりにもストレートに「舞踏ファン」にとって観易い、受け容れ易いものになってしまっている。もっとも、そのことが作品にとってマイナスになっているところが、あの作品の可能性でもあるのだけれど。
世間、処世術、ライフスタイルと、大分否定的な物言いをしてきたけれども、ようするに、このところの田辺知美の舞台を観ていると、「死者よりも生者の都合の方が優先」になっているように思えていた。
ところで、このようにぼくなりに捉えたダンサー田辺知美の軌跡を乱暴を承知で素描してきたのは、そうしないと先日の舞台で田辺知美が紆余曲折の果てに現時点で辿り着いたところが語れないからだ。もっとも、ダンサーの長きにわたる活動を追う時に、そのダンサーの踊りをとらまえる「起点」をどこに置くかというのは、自分がたまたまいつそのダンサーを初めて観たか、ということにも関わっていて、ぼくはたまたま彼女の踊りをこの20年弱しか観ていないけれども、たとえば彼女の初舞台から観ている人はまた違った観点をもっているだろうとは思うが。
ダンサーの成り行きが一観客である自分にとって望ましいとは思えない方向へ行ったとしたら、黙って観に行くのを止めればいい、にも関わらず、ずっと田辺知美を見続けてきたのは、まだ彼女の踊りがぼくの想定できないどこかに出る可能性がある、ということを期待していたからで、今回の『身体の知覚』での彼女の踊りは、まさにそのような新たな場所に「出た」ように感じられた。
舞台冒頭、会場外から、客用の入り口を通って入ってきた田辺知美は、観客席の背後をグルッと廻り込むようにして、ゆっくりと舞台に向かう。手には大切そうに朱塗りのお椀を両手で運んでいる。やがて辿り着いた舞台上で、積まれている平台の下で、地面に這いつくばるようにして、その地面との近さ、寝るのでも立っているのでも坐っているのでもない這いつくばった形が、日常生活から外れた「人間」としてまずいるように感じれる。焼け跡で探し物を掘り出そうとしているような姿にも見えるのは、傍らに積まれた平台が、瓦礫と化して屋根の無くした家屋の残骸のようにも見えるからだろう。最初、会場の空調設備が不調で雑音を出しているのか?と勘違いしたくらいの、微かなノイズ音がさりげなく流れている。這いつくばっている彼女のからだ自体は、かつてのような重層体ではない。けれども、具体的な何かに向かっている、それが何かはわからないけれども、自らのフォルムを気にしているのではなく、具体的な何かに向かっているからだは生(ナマ)で、その生々しさの元で床は床以前の地面を思い出し、晒された背中は外気を感じさせるのでその上方には空がある。田辺知美の踊りはぼくが見始めた頃から一貫して部屋の中の踊りという印象があったが、今回の舞台で初めて外へ出た、という印象を持った。あえてイメージでいえば、繰り返しになるけれど、深夜の焼け跡で瓦礫と化した自宅にも戻って来て何かを探している、というような佇まい。いや、そこまでくるともう自宅でも他人の家でも関係ないし、探しているものは今触れている土自体かもしれない(実際にそこに土があったわけではない)。床が地面であること、瓦礫と化した建物が木であること、からだが人体であること。具体物は認識の惰性を超えて具体的になるとほとんど抽象の気を帯びる。その中で、ずっと手にしているあのお椀は一体何なんだろう?と考えた時に、ああ、あれは今「生活」から離れて、それでも今までずっとごはんを食べてきたということそのもの、自分も親もその前もずっと日常の中でごはんを食べて生活してきたということ、つまり自分は先祖から繋がっていた筈だという、繋がって来た営みの器で、しかしそれは空っぽで、既に生きていない命の骸に過ぎなくなってしまったものを手放せないで持ち続けているようだ。外気の中で、自分をくるんでいた家や世間から外れて、彼女は「一人」である。
平台の上に登って積まれている平台の一枚をズリズリと動かす。物を動かしながら、物を動かすというより、自分のからだを動かすことで結果的に物が動いている。何がしたいのかはわからない。ただ自分のからだを確認しているようにも思える。平台とからだが、一体になるわけではなく束の間連動し、押すことでただ返ってくるものを数えるように。外と内の交錯する境界を整えようとしているように、そこで受動と能動が交錯する。内と外、具体と抽象、受動と能動が交錯する、その摩擦音をピックアップして増幅されたように高まるノイズ音は、具体からはみ出す抽象、現世の背後のこちらへの漏れ出しを表わしているかのようだ。
そこで彼女は手にしたお椀の中に、親から子、子から孫と繋がれる生の営みが骸と化している空っぽの器の中に、唾液を垂らす。一人今現在に生きている自分の生の雫を注ぐ。唾液はお椀の硬い表面に浸透はせずただそこに溜まるだけだ。銀色に曳く涎の筋が、一筋、二筋、三筋とお椀に落ちる。夜に滴る。
正直、久しぶりに終わった後しばらく動けないような舞台だった。今まで観て来た田辺知美の踊りが長い紆余曲折を経て不意に一つの場所に出た、という脈絡を感じた。眠れないからジタバタする、ジタバタするから余計眠れない、調子の悪い時の田辺知美はそんな感じだ、と書いたが、今回の田辺知美の踊りは「眠れなくとも夜はある」という踊りだった。蹲った彼女の上空に、星が見えた。
脈絡があったから、今回の舞台があったのか、今回の舞台が脈絡を引っ張り出したのかは知らない。むしろこれまでつらつら書いてきたような脈絡などはどうでもよく、あの夜の踊りはまさしくあの夜の踊りとしてある、舞台だった。