2.3日中は無理だったごめんなさいもうちょっとまってね。
投稿者「admin」のアーカイブ
前口上
『ダンスはうまく語れない』とは、我ながら良いタイトルをつけたもので、あんまり良いタイトルなのでタイトルをつけた段階で結構満足してしまって、本文を書かないままもう何年も放置してしまった。
去年の暮れにサイプレスの忘年会で、今年からちゃんと書きますと宣言してしまったので、書こうと思う。その時は、二月から毎月月末に更新しますと言ったのだが、それはちょっと変えて、不定期で、しかしながら最低月一回は必ず更新します、ということにしたい。
何を書くかというと、いわばダンスを巡る雑談である。思えば舞台芸術としてのダンス公演を観にいくようになってから、間もなく20年が経とうとしている。その間、私がダンスを見ながら考えていたことを、考えの赴くままつらつらと書いていってみたい。時々に見た公演の感想などもまじえながら。
(こんな当たり前のことをわざわざ言って意味があるのか?)と自問してしまい言わないまま、書かないままにいたことも書いていこうと思う。だから読まれた方は(そんな当たり前のことをなんでこいつはわざわざ言ってるんだ)と思うかもしれないが、まあたまには当たり前過ぎて普段話題にならないことを確認してみるのも悪くないのではないか。
ダラダラ書く。ダラダラ考えているからである。
かとう当夜
(今回はまたすぐ2.3日中に更新します)
音について
横浜若葉町ウォーフでの竹屋啓子さん、韓国の南貞鎬さんとの即興のダンスの會で音響の島さんの「音の佇まい」とでも云えそうな無音の音色に感服した。踊り手の「聴こえているが、聴いてはいない」風なカラダの様態が「音」にコピーされてるコトに。ザックリ云って「邪魔にはならない」といふ風な聞耳はあるけれど「サイレントの騒動めき?」とか聴覚の裂目に入り込んで昼寝のイビキが心地よいような、無音の薄化粧が見事!! まさに幻聴であったのかもしれない。1/18,19,20の3日間の体験だった。
能舞台のコト
去年12月6日に青山銕仙會の舞台を踏む事ができた。2回目。まるで「能」の教養、知識はゼロにて立ち向かう。中途半端な知ったかぶりよりマシか? 随分とリハーサルでは解放されていたけれど、本番では舞台に「包み込まれた」かしらん、と思えるほどカラダがヘンに貞淑だった。橋懸かりの歩容は危ないけれどソコソコ自分であったけれど、本舞台では「焦った」。まず、四辺スッポンポンに「抜け」ている。裸ダ。客席が正面/脇と分けられてるが演者からすると[二つ正面]をとることとなる。あの「目付柱」てえのが無ければ事態は変るだろうに。その丸裸の本舞台の「床面」が、これまた流れ落ちてるような足許の危うさである。身の置き所といふような「隙き間」を見つけるのが大変で、要はカラダが隙き間だよっ、闇だよっ、てなことかしらん、と思った。
即興のコト
チラシができた。来年一月に横浜若葉町ウォーフで竹屋啓子さん、韓国の南貞鎬さんとの即興のダンスの會が持たれる事になった。コト改めて「即興ダンス」といふ断り書きがある。自身経験的に了解している「即興」とそれぞれ各自が「即興」をどう考えているのかはヤッてみなくちゃ分らない。分らないところが「胆」なのかもしれない。これまた経験的に云えば、「即興」と云うと、ヤッてみようか的な「試み」とか「実験」とかの色合いが濃い、観に行って面白かった記憶が余り無い。正直云って、一人でヤルなら「どうにか成る」或は「どうとでも成る」といふような乱暴な気分で舞台へ向かえるものの、これがアンサンブルで「即興」になると乱暴、野蛮が影を潜め、「反応」を繕うようなヘンな関係音痴の小心者の如き「振る舞い」と化する経験が報告されてる/猛省!自戒!録。
廻りの状況、塩梅を観てる振りして自分を失うモノ、自分のコトしか考えないで自分を失うモノ、失う物もなく、ただ居るモノ。ものものしくも、物悲しい風景の展覧に何度立ち会った事か!観せるといふよりもヤル側の理屈を優先した丁/半 博打のドンヨリとした賭場の如き様相と云えなくもない。だから面白い!だから醍醐味!お客様! ヤケクそな気分でナケナシの蛮勇をふるい「どうにかなるさ、皆ベテランだし!大丈夫!」ところが、どうにもならずに、大丈夫でないのが舞台に奈落のある由縁、特にベテランといふのがロクなもんじゃない。取り留めなく、際限なく、あてどなく、暗澹と立ち尽くし収拾不能な茫漠たる荒野、暗黒に終わらない「冬」が舞い降りたよう。とココまでは悪夢。貧しくも浅き、私の「即興ワル苦労」の話。そうだろっ、じゃなきゃ、声掛けて頂いた竹屋さんに失礼テエーもんだろ! だから、だからこそ最終線を引いて、背水の陣を敷いて、用意万端整えて「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」でんがナー。昔、確か日大全共闘のドキュメント映画のタイトルで「死者よ来たりて我が退路を断て!」といふのがあったと記憶しますが、正にアレっ!
大野先生曰く「イヤー、土方さん達と即興して成立したためしが有りませんでしたネー」と伺った。然もありなん、と合点した記憶がある。
コトバのコト
ワタシハデテイク、ワタシノナカヘ / もし、こんな電報が突然、真夜中に届いたらどうしよう? と、頼まれてもいない心配を心配した。
「わたしはでていくわたしのなかへ」 巧い! 座布団五枚! このフレーズ、平仮名だと収まりイイが、漢字が入ると考えなくてイイ事にアタマがいく。コトバがカラダを触診し、カラダがコトバの「脈」をとる。[でていく/なかへ]の捩れが引き起こす場所の肌触りは、こんな遊びをさっきまで、独りでしていたような気がしなくもないし、日常茶飯 四六時中、出たり入ったりしてる気もする。眼前なのに包まれてる。何も無いカラッポなのに、その奥のカラッポ、カラッポの寝グラの傍に居るような怪しい位置。ダンスソロの極意なのか? 否、即興への誘い? 兎に角「わたし」は鬱陶しい!!
肉体の出口は「空間」の入口、空間の出口は「肉体」の入口、その出入口でヒラヒラ揺れてるカーテン、あれは衣装??
* 良いダンスを観ていると、ダンサーがその人であると同時にそのひとの分身であるように感じることもある。その人がその人であるということの中に、差があるのだ ‥‥‥。
「空間のネガ」 加藤智野
ヘンな例えだが、これが「引き蘢り」なら「わたしははいるわたしのなかへ」となるのか? 四面壁に囲まれた小部屋のような「わたし」のなかへ。「でていく」だと「なか」なのに無限な「暗がり」あるいは「明るみ」、無限なのに「果て」があるような入り交じった、分らないから進むしかないような切迫しながらも晴朗なファンファーレが鳴り響く。この「引き蘢り」と似ているのが、一昔前、念仏のように唱えられてた「集中」かもしれない、私の場合だが。
「集中」するほどに内閉とか自閉と云われるような外部を遮蔽する領域に嵌まるような、逃げ込むような様態を「集中」と称してるような一時期があった。客から見れば勝手に「籠ってる」ような風通しの悪いヘンな「押しつけ」である。なんせ「当り」欲しさに何でもヤッてた頃の事。客の迷惑省みず鼻膨らませて没入し、ヤレ内部だ、外部だと頭デッカチに騒々しかった。自己流は余分なコトばかりを思い付く時間の浪費であるが、タマに必要な浪費といふコトがあるかもしれない。
* 舞踏は集中ではなく、拡散された集中力の持続である /土方巽 テルプシコール通信
正朔「舞踏馬鹿の独り言」より
つづき
アインシュタインが『原理』と言っているものは、芸術家が『モチーフ』と呼んでいるものです。モチーフがなければ芸術家は作品を創れませんが、作品のためにモチーフを必要とするということではありません。モチーフを「ネタ」だと思っている人にとってはそうかもしれませんが、芸術家にあっては、モチーフが作品を必要とするのです。直覚的に開示されたモチーフの存在を、そのモチーフを展開した作品を生み出すことによって、芸術家は証明しようとするのです。 「身体性の幾何学」笛田宇一郎
前回の補足のような、そのまんま「補足」といふべきか。我田引水に都合よく引用させて頂いた。この前後、無数の科学者、数学者、哲学者が入り乱れとてもとても我が教養にては追いつかず、然りとてドンドンと引き込まれていく読書体験は劇場なら「分らないけど面白い!」といった経験あるものの、何やら取留めもない自分のしてるコトの裏が取れた、といふ気がした読書は希有の経験、何時もなら投げてる。「分らないから進んで行ける」といふべきか?
[裸体は衣装]といふけれど、この着替えの利かない衣装が解け、コボれ、はだける着崩れを
一点で寸止めしてるのもまたカラダといふ身だしなみである。着崩れは何時も内部へ着崩れる。
衣装のこと
纏まらず上手く書けずにもどかしいのだが、先だっての舞台で少し嬉しくなるようなコトがあった。その公演の案内状に書いた上星川の稽古場での大野先生の口癖だった稽古終わりの「今日は記念すべき日です!」に沿うなら少しは記念すべき日になったかもしれない。
衣装は公演のたび事に作られ、ソレきりの衣装もあれば着つづけられる衣装もある。結果、断捨離できずの幾つもの「パンドラの柳行李」が天袋に押し込められて唸ってるような仕儀となる。何気なしに、どうといふコトもなく、逃げ込むような致し方なさで着つづけられてきたヘンな連れ合いのような衣装が今回俄に浮上してきたといふ話。
この衣装、かれこれ40年にもわたり着つづけられ、先だっての公演「留守にでた虹」にも引っ張り出された。まさか、衣装が「またかヨッ!」と呟いたかどうかは定かでないが、この度この衣装、ミッションを帯びたような顔して暗転板付き、降り立っや見事にカラダを拉致し去ったのである。たかが衣装一枚に「降リ立っ!」はチト大仰であるが、これまでのこの衣装の迷走を思うと大仰でもない。見掛ばかりを押し付けられ表装ぼけしたお飾りの挙句、イヤイヤ「中」を埋めに懸かるものの、カラダの側に表装を「支える」粒子の謙虚さが欠片もないものだからカラダと衣装のもつれ合い40年!いつまでも馴染まない。かと云って裾さばきよろしく、見事な身捌きで着こなして見せるような衣装扱いに慣れたヒトもいるが、それがイイか? と云うとどうもそんなんじゃナイ。そういふヒトは何を着ても流暢に着こなし舌をまくが、何を着てもみな同じになる。「身ごなし」が出来上がってるとそうなるのかもしれない。
着る事は着られる事
作品が「作品」の体をなすまでの発端は他愛もない思い付きとかアイデアである。予測も憶測も覚束なく心もとなくヒトに話せるようなモノじゃない。だからヤッちゃうといふワケで始まっちゃう。当然、殊更の動機やら根拠などなく「ヤッてみなくちゃ分らない!」といふ理屈だか情熱? 衝動。その衝動が歳取り、色褪せた頃、衝動が「原因」に遭遇する。「結果」と貼り出された部屋に入ると「原因」が背中を向け座ってる。「待ちくたびれた!」と振り返った。
つまり、この衣装、作品までに40年を要したコトになる、ソリャ、待ちくたびれたに違いない。この衣装でなければイケナイ、この衣装の為の「約束の地」のような場? 座? 位置? 衣装が嗅ぎ分け、探り当てたピッタリ、余りにもぴったりの「透き間」、「ひとがた」をなぞる輪郭。この「透き間」へ滑落し続けていた時間が40年なのか、余りにもピッタリ過ぎて距離と時間が消滅していたのか。衣装といふ「抜け殻」に「カラッポ」が袖を通す。
空蝉に入らむと待てる空気哉 耕衣
服 舟(月)は盤のもとの字で、盤は儀礼の時に使う器であるから、盤の前で何らかの儀礼をおこなうこと「服」といふ。おそらくは降服の儀礼 にしたがうことをいうものであろう。降服の儀礼を終えて、服属(付き従うこと)の職務が与えられ、その職務をおこなうことを服事という。「したがうことにしたがう、おこなう、はたらく、もちいる」などの意味に用いる。服飾・服従・服役・服属・屈服・降服・服毒・着服・心服・敬服・征服‥‥‥。 常用字解 白川静
再開、
智チャンに忠告を受けた「更新されてホームページなの、更新されないホームページは見向きもされず、無視されて廃村に草ボーボー!」とは云っていないけれど、それに近い事は廻りからよく云われた。
「早熟」とか「遅咲き」とか云う、それぞれ個々の時間の懸りを廻りが勝手に云ってるのだろうが、この中には早すぎて潰れてしまうヒトや、遅いだけで咲かないヒトを含んでいるのだろう。「咲く」といふコトが何を指しているのか解らない。さて、自分はどうなのか?
今回の「留守にでた虹」の近況のような案内文で大野一雄先生の「アルヘンチーナ頌」の時の先生の年齢71に自分もなって、この71歳といふ年齢をとても意識して迎えた旨の雑文を書いた。年齢だけでも先生にあやかりたいと浅ましく考えたワケじゃない。「嗚呼、アノ時先生71だったんだ」といふ風に思った時、背を押されるような想いがした、と書いた。端的に勇気づけられたといふコト。
私の「舞踏」といふマイブームも何合目に差し掛かっているのやら、毎回毎回「目前の頂き!」など叱咤激励か、けしかけてるのか、騙しすかして続けてきたか。「咲かないうちが花なのよっ!」とでもうそぶきそうな癖ばかりは抜けないものである。
影のこと
九月十日、サイプレスで松下正己の舞踏観測會、観客4人。
蛍光灯の消灯、開始。客それぞれは指定通り懐中電灯を持っている。初めは踊り手松下君が口に銜えた小型電球のうっすらとした明かりが微かに本人の顔廻りを照らすだけだが、そのうち一人、二人と客が自分の懐中電灯で松下君を照らし始める。四個の光源。白壁に投影される四つの松下君、織りなす四つの影の交錯。客の目線は松下君本人から自分の手元明かりが映し出す「影」へと移されていく。光に照らされ見えているモノでなく、見えているモノの「影」。「あの見えているものは確かに馬や牛だが、あれは暗い穴そのものなのか。その穴の中に入って見えなくなってしまうものだろう。」といふ「病める舞姫」一章最後の一行がかすめ、「影」は背中合わせに貼り付いた「裏口」のコト? などヘンな合点をし、「肉体とは存在の影ダッ!」な~んって云ってたヒトの事も思い当たった。
焼き切れるほど「影」へ焦点を絞ると松下君は消える。音も消える。「影」が吸い込んでしまったように見えてくる。客の手元の光源の事も「影」を媒介する松下君のカラダも忘れ、まるで白壁の奥に塞き止められていた「影の微粒子」が炙り出され、滲み出し壁面の「染み」となり「染み」が犇めき「ひとがた」を結晶し、その「ひとがた」の息づかいが「影」の濃淡を揺らめかせている、と云ったような幻影を誘った。そして「影」に誰それの「影」といふ必要も興味もなく、ただ「影」であるコト、と今更のようにそう思った。