ついついモノの弾みで「つづく」と書いちゃったけど、つづかないので困ってる。先行き読めずにその場凌ぎに書いてるから当たり前といえば当たり前。サラサラと、徒然と書けばイイものを頭の中で何か「上手く纏めたい」とか考えてるからなのか、常日頃深く考えるといふ習慣を放棄しているからなのか、無知に加えての怠惰がアカラサマである。
今まで終わった舞台の後にその舞台のタイトルがポツンとカラダに取り残ったような感じ、気にかかる事はなかった。確かに[途中の花]といふ言葉のセンスは好きだけれど、殊更云う程に頭抜けたセンスとも思えない。それより、こちらの言葉の「掴み」といふか「当り」が変って来たかもしれない、今までコトバでカラダを考えていたのが、少しはカラダがコトバを探るようになってきたのか、カラダ/コトバを往還するような回路。普段なら下らん、陳腐と見過ごしていたような眼がヘンな見詰め方、物珍しがり方、発見!したような塩梅になってきたのか、だったら喜ばしき事。それは他人に貰ったタイトルにせよ、自身が付けたタイトルにせよコトバの側から「眺められ、見返された」ような経験なのかもしれない。例えば何の疑いもなく書いてた「文字」に何故か俄に疑念が生じ「この『字』の元々はこうじゃない!」なんていふ不意の魔がさすような刹那があるけど、アレッてその言葉の表層の、語感の、肌触りの、意味の、底の、奥でジーッと静かにメラッてる種火のようなヤツが吹き上がっちゃったのかな?と、コトバの新鮮を考えてたら考えた事もないヘンチキなところに行着いた。
「言葉にしたらウソになる」といふのは言葉の限界、本意の届かなさ、歯痒さ、恨みのような諺だけど、逆に「言葉にしなけりゃウソになる」といふアンチテーゼのカラ元気?を仮設すると、その諺とカラ元気を通低する耳鳴りのよな通奏底音がカラダなの?その通奏底音が時として言葉の犇めきを裂いて咲くよな沈黙を「踊る」といふの。
