なにも好き好んで、そうしてるワケではないし、「勿体ない!」が昂じたワケでもないけれど、何かといふと、事あるごとにあの「コート」には助けられた。今風に云えば私にとってこのコートはハレの舞台の「勝負服」である。ただコトあるごとに引っ張り出され過ぎ、勝負疲れ気味の「勝負服」と謂える。このコートは永い永い日常普段着としての現役生活を終えたけれど、次に舞台衣装としてのステージが用意されたのは退役軍人の戦場復帰に似ている。
当初、まだテント素材のゴワッと、ザラッとして強張った感触の名残があったけれど時経るにつれ、生地はみるみる色褪せ、痩せ衰え、だが残骸といふほど骨っぽくはなく、搾り滓が陰干しされてるように肺病あがりのコートが衣装箪笥に昏く吊り下げられてる風に眺められた。吊られてるうちはまだいいけれど、その辺に脱ぎ捨てられていようものなら「可哀想!」を通り越し恐かった。衣装は脱ぎ捨てられると「項垂れ」たり「咽び泣いたり」しているのか、脱ぎ捨てられた直後の感染した体温が感情と化し立ちのぼり、無くしたカタチへの嘆き、行き場のなさ加減の嗚咽のように見えてきたりする。
初めのほうこそ、外からコートを捌き、扱うような手つきや、コートの内での肌触りを吸い上げようと苦心惨憺した挙句、コートはチョッと眼を離した隙にシナーッと絡みつくような、纏いつくような、吸いつくようにしなだれ掛かるが如き馴染みの手管、気がつけば全身コートにまみれ、染められ、籠絡され、果ては「コートに隠れた」とも「コートに逃げ込んだ」とも見えない事もナイような有様にて、風に袖を通すようにコートに着こなされていた。
コートがカラダを「着こなし」、その幽かな乱れや崩れが「身ごなし」になり、見た事もない「コートのヒト」が静かに起き上がる日が来るような気がする。
