「カット、カット!」撮影現場の監督の声ではない。土方さんは時として妙に甲高い声になる。「憧れ」も度を越すと思い込みの一人歩きとなる。満艦飾に妄想された土方巽は「声は低いが、寡黙なヒトに違いない」「夫人は更に寡黙にして清楚!」などなど止まるところを知らない。若造にありがちなこうした百花妄想は回り道して現実への悲しいご帰還となる訳だ。四つ違いの私の姉は当時売り出し中のフランク永井といふ唄うたいをラジオに齧りついて入れあげた挙句、普及し始めたテレビジョンにそのフランク永井の姿を目撃するや、言下に言い放った「コイツはフランク永井じゃない!」。その「声」と「ツラ」との、どうにもこうにも埋め難い溝に身を引き裂かれた錯乱の一コマを憶い出す。その錯乱の姉も粛々と発育し、今や立派な社会人へと辿り着いた。
土方巽は何を「カット、カット!」と叫んだのか?
「武さー、お前のプロフィールだか何だかの冒頭に、俺の『[肉体の叛乱]を観て衝撃を受ける』の後に『これなら俺にもヤレそうだ!衣装の発見』てのは何だよ!」ヤッベー!絶体絶命のピンチ! 誰が土方巽本人の眼に触れるなど想像しえたか。当然、眼に触れないと踏み、勢い込んだハッタリである。土方さんの前ではボケーと見とれるか、俯いてただただ話を伺うのが常だったが、この時ばかりは「俯き」が土下座寸前、あと一歩のレベルへと達していた。小さな酒の席での事。カラダを低く沈めてお膳に顎を載せるようにして下から上に睨め上げるような「違いますか?」の囁き、話しながら眼前に泳がせるように、そよがせるような手、空気に差し込むような、掴むような土方巽の指。書いてるうちに憶い出してくるものだ。この時、大事(こういふ場合に使う言葉?)には至らなかった。土方さんが噴き出す笑いを堪えて「カット、カット!」と云った『これなら俺にもヤレそうだ!衣装の発見』の一行は程なくプロフィールから外され、「土方巽[肉体の叛乱]を観て衝撃を受ける」だけが残った。 つづく
