「解った」は身に付かないが「解らない」は身に残る、カラダに滞留する。常識的に「解った」ほうが「解らない」よりもイイと思われてるのは鋭敏や繊細が鈍感よりも美しく上等と思われてるのに似ている。この鋭敏/繊細の独りよがりには手を焼く、鬱陶しいから相づちうてば直ぐに逆上せあがり、逆上せ上がればコトバが滑り、滑るコトバに歯止めが効かず、反論すれば不貞腐れる。まっ、私の周辺の事ですがねっ。もし、世界が鈍感で満ち溢れたらどうしよう、それはそれで地獄絵でんがな! 結論を急ぐまい、否、急ごう。「これなら俺にもヤレそうだ!」精一杯の虚勢の呟きの動機は「解らない」?その場凌ぎの「解った」で「これなら俺にもヤレそうだ!」じゃ何か限界間近、直ぐに谷底!直ぐ墓穴!が眼に見えるじゃないですか、それに対し「解らない」だけど、だから「これなら俺にもヤレそうだ!」とヤッてみるなら、こちらの方が一縷の望み、一条の光感じません? ここには「解らない」に煽られ、そそのかされ、けしかけられて火照った顔が覗かれる、バカはバカなりにいじらしいじゃーないですか。「解らない」から面白い。まるで人生相談で解答をもらって「解った」けれど、「解決は貴方がするんですよっ!」と肩たたかれてポカーンですか。「解らない」から出発できる。きっと「嗅いだ」、コトバにできない勇気のような、後押しのような、親近と反発がない交ぜになりながらコトバに出来ないぶんリアルが迫り上がるような体験、予兆が走ったか。
そうそう、土方さんの「ドブ」発言の少し前か、ほぼ同じ時期だったかもしれない「舞踏懺悔録集成」といふ大規模なイベントが開催された。この辺が舞踏が世間認知されるかどうかの関ヶ原だった、1985年かな。86年1月に土方さんは亡くなられてるからここいらは立込んでるし、切迫していたかもしれない。何故「懺悔」なのか、参加した舞踏家諸氏からは「土方さんにとって懺悔かもしれないけれど、俺達はこれからが始まり!」なんて声が挙ってた。「懺悔」が先か、「ドブ」が先かは定かではないが、土方さんの中では面白くない方へ向かいつつあったのは確かだろう。本当に「ドブ」へ捨ててしまったんなら、今はそのドブに「蓋」して、その上で舞踏會してるのかな? ドブさらいするヒトはいないのかしら。何故か急に「単独処女舞踏會」の時に「懺悔の値打ちもない」といふ演歌を使ったのを憶い出した。確か、北原ミレイといったかな。
