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備忘の青空3 武内

 「解った」は身に付かないが「解らない」は身に残る、カラダに滞留する。常識的に「解った」ほうが「解らない」よりもイイと思われてるのは鋭敏や繊細が鈍感よりも美しく上等と思われてるのに似ている。この鋭敏/繊細の独りよがりには手を焼く、鬱陶しいから相づちうてば直ぐに逆上せあがり、逆上せ上がればコトバが滑り、滑るコトバに歯止めが効かず、反論すれば不貞腐れる。まっ、私の周辺の事ですがねっ。もし、世界が鈍感で満ち溢れたらどうしよう、それはそれで地獄絵でんがな! 結論を急ぐまい、否、急ごう。「これなら俺にもヤレそうだ!」精一杯の虚勢の呟きの動機は「解らない」?その場凌ぎの「解った」で「これなら俺にもヤレそうだ!」じゃ何か限界間近、直ぐに谷底!直ぐ墓穴!が眼に見えるじゃないですか、それに対し「解らない」だけど、だから「これなら俺にもヤレそうだ!」とヤッてみるなら、こちらの方が一縷の望み、一条の光感じません? ここには「解らない」に煽られ、そそのかされ、けしかけられて火照った顔が覗かれる、バカはバカなりにいじらしいじゃーないですか。「解らない」から面白い。まるで人生相談で解答をもらって「解った」けれど、「解決は貴方がするんですよっ!」と肩たたかれてポカーンですか。「解らない」から出発できる。きっと「嗅いだ」、コトバにできない勇気のような、後押しのような、親近と反発がない交ぜになりながらコトバに出来ないぶんリアルが迫り上がるような体験、予兆が走ったか。

 そうそう、土方さんの「ドブ」発言の少し前か、ほぼ同じ時期だったかもしれない「舞踏懺悔録集成」といふ大規模なイベントが開催された。この辺が舞踏が世間認知されるかどうかの関ヶ原だった、1985年かな。86年1月に土方さんは亡くなられてるからここいらは立込んでるし、切迫していたかもしれない。何故「懺悔」なのか、参加した舞踏家諸氏からは「土方さんにとって懺悔かもしれないけれど、俺達はこれからが始まり!」なんて声が挙ってた。「懺悔」が先か、「ドブ」が先かは定かではないが、土方さんの中では面白くない方へ向かいつつあったのは確かだろう。本当に「ドブ」へ捨ててしまったんなら、今はそのドブに「蓋」して、その上で舞踏會してるのかな? ドブさらいするヒトはいないのかしら。何故か急に「単独処女舞踏會」の時に「懺悔の値打ちもない」といふ演歌を使ったのを憶い出した。確か、北原ミレイといったかな。

備忘の青空2 武内

 ウーン!「これなら俺にもヤレそうだ!」気負い、ハッタリ、自惚れ、強がり、大風呂敷に無知、無学、それでも足りそうにないこの度し難き「鈍」はどこから湧いて来たものか? 否、この「鈍」は「鈍」なりに何か嗅ぎつけ探り当てたモノがあるのかしら、聡明な方々には見落とされがちだが「鈍」の眼だけには止まるような何か。1968年10月10日、この年は70年安保へ向かうピーク、この年のピークが10月。大学は荒れに荒れ、新宿なんぞ歩いていると始まる!何か始まる!何があっても可笑しくないといった一触即発ぎみのワクワクする熱気に包まれていた、寺山修司がコンミューン前夜のパリの様相!と云ってたっけ、そんな不穏な空気のど真ん中で日本青年館の土方巽舞踏公演を観た。後々、この事に枝葉が付いて記憶に加工が施される事になるけれど、これだけの背景の中での記憶が捏造、改竄されないワケがない。
 一つだけハッキリ覚えているのは眼前の舞台に展開されている「行為」が、如何なる表現のジャンルになるのか解らず(命名、腑分しえぬ事に遭遇すると混乱する、今なら即、パフォーマンスと片付けられるが)、解らないままに見終えさせられたが、この解らなさには「こりゃ、表現とも違うのか?」と云った、素朴なうっすらと眩しいような「懐疑の芽」が萌す「初めての帰り道」だった。
 今、この「解らない」は解ったのか? 残念ながら「解らない」ままにカラダに押しとどめられている。まっ、「カラダ」抱えて「解った」はネエーだろう。変な言い方になるけれど、47年の歳月を経て「解らない」が熟成し、磨かれ、深化する「息づかい」。その切れ目に咲く花「途中の花」といふ訳、なんか酒の銘柄だね、この酒一度吞んでミー、47年モノ大吟醸。
 47年前に眼前に出来したこの名づけ得ぬモノを名づけ得ぬままに握りしめてるこの愚直!この鈍!「純粋窒息派!」笑いながら土方巽の命名癖の直感は酒の席でそう断じ「舞踏」といふ通り名が正規に商標登録されたかの如くタグ付けされた瞬間「舞踏はドブへ捨てよう!」と吐き捨てるように云った。      つづく

備忘の青空1 武内

「カット、カット!」撮影現場の監督の声ではない。土方さんは時として妙に甲高い声になる。「憧れ」も度を越すと思い込みの一人歩きとなる。満艦飾に妄想された土方巽は「声は低いが、寡黙なヒトに違いない」「夫人は更に寡黙にして清楚!」などなど止まるところを知らない。若造にありがちなこうした百花妄想は回り道して現実への悲しいご帰還となる訳だ。四つ違いの私の姉は当時売り出し中のフランク永井といふ唄うたいをラジオに齧りついて入れあげた挙句、普及し始めたテレビジョンにそのフランク永井の姿を目撃するや、言下に言い放った「コイツはフランク永井じゃない!」。その「声」と「ツラ」との、どうにもこうにも埋め難い溝に身を引き裂かれた錯乱の一コマを憶い出す。その錯乱の姉も粛々と発育し、今や立派な社会人へと辿り着いた。

 土方巽は何を「カット、カット!」と叫んだのか?

「武さー、お前のプロフィールだか何だかの冒頭に、俺の『[肉体の叛乱]を観て衝撃を受ける』の後に『これなら俺にもヤレそうだ!衣装の発見』てのは何だよ!」ヤッベー!絶体絶命のピンチ! 誰が土方巽本人の眼に触れるなど想像しえたか。当然、眼に触れないと踏み、勢い込んだハッタリである。土方さんの前ではボケーと見とれるか、俯いてただただ話を伺うのが常だったが、この時ばかりは「俯き」が土下座寸前、あと一歩のレベルへと達していた。小さな酒の席での事。カラダを低く沈めてお膳に顎を載せるようにして下から上に睨め上げるような「違いますか?」の囁き、話しながら眼前に泳がせるように、そよがせるような手、空気に差し込むような、掴むような土方巽の指。書いてるうちに憶い出してくるものだ。この時、大事(こういふ場合に使う言葉?)には至らなかった。土方さんが噴き出す笑いを堪えて「カット、カット!」と云った『これなら俺にもヤレそうだ!衣装の発見』の一行は程なくプロフィールから外され、「土方巽[肉体の叛乱]を観て衝撃を受ける」だけが残った。    つづく

備忘の青空 武内

 誰に脅迫されてる訳でもないのに書かなきゃなど思うのはホームページなど作り、こんなコーナーなどがあり、ある事に脅迫されてるのかしらん? 自分の決めた事に決められる不便!

 うろ覚えなんだけど、確か「ボウキャクトハワスレサルコトナリ、ワスレエズシテ、ボウキャクヲチカウココロノサミシサヨ/忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の寂しさよ」と丸暗記されたラジオドラマ「君の名は」の冒頭ナレーションのフレーズだ。昭和20年代のまだ入学前の事、この放送時間に風呂屋は空になったといふ代物。無論、意味抜きの[聴き写され]になっている。数え上げれば切りない事だ「お富さん」の「イキナクロベニ、ミコシノマーツニ……」とか、滝廉太郎かな「荒城の月」の「ハルコウロウノ、ハナノエン……」とか。この[聴き写され]を土方さんは「聞こえたものは、聴きわけていたものであったのか……」と「病める舞姫」文中で軽く流している。後々この[聴き写され]が意味了解された瞬間にコトバは瓦解するけれど、瓦解しなけりゃ「知の産声」が上がらないところが「人間て悲しいね」になる。

 なんで、こんな書き出しになっちゃったんだろう?そうそう、これから書く事のタイトルを僕の稽古ノートの表紙から「備忘の青空」としようと決めた時かな。ああ!このへりくだり方!きっと死ぬまで土方に付きまとわれるんだろうな! イヤ!待てよっ、この「付きまとわれるんだろうな」といふ被害者意識がいかん!ここは一番土方巽のヒソミにならい「ゴドーを待ちながら」を指して先生「待っても来ない神なら首に縄つけてでも引きずり出せ」と仰ってた、同じ綴り方で土方さんをゴドーにし、この幻の縄のリードを締めたり、緩めたりの長さの手応えがコトバの遠近法となるやもしれぬ。

何も足さない、何も引かない 武内

何も足さない、何も引かない。何だかそんな境地に稽古が突入してきた。今までが大仰な身振り、立ち振る舞いだった訳でもないが、今、この言葉響いてる。何かやろうとする鼻息が見苦しく感じる。何かしても、しなくても大丈夫アンタ「居る」から。

三日間の観劇 武内

 珍しい事に三夜連続の観劇とあいなった。最後に観たオイディプスの櫻間金記さんや糸操り人形の田中純さんがイイ。カラダが鬱陶しくない、居なくて居てもいいような静かな隙間だった。やっぱ老人か、歳食わなきゃダメだな!

噤む かとう

武内さんへの返信 

たとえば「ひきこもり」の人が、ひきこもっていることに満足していれば問題ありませんが、それが、苦痛で、本当は外に出たいのに出られない、という場合、出られない理由の大きな一つとして、世間体を気にするからだ、という話を聞いたことがあります。
「関係性を脱出したと云えない?」誰が?誰との?
そもそも「私」というのが関係性の産物ですから、具体的な他人との関係を欠いた方が、仮想の関係性が肥大化する、ということがあるかもしれません。
「自分が解らないから居られる、解ったら居られない」というのはその通りだと思いますが、自分が他人に、それ以前に自分自身に、自分を説明し続けている、のではないだろうか。踊りにひきつけていえば、一生懸命自分を説明しようとしているように感じられる踊りはつまらないですね。
でもおそらく武内さんの思っている「落ち込み、ふさぎ込み、閉じこもりの価値」というのはあると思います。むしろ「噤む」に近いのかなあ?
よくダンサーの人が、舞台の上に身を「晒す」という言い方をしますが、舞台の上に身を「隠す」という踊りもあるんじゃないでしょうか。

かとう

私はでていく私のなかへ

落ち込み、ふさぎ込み、閉じこもり、といふのは関係性の上での自閉症状だけど、裏や奥や底の方から見て、関係性を脱出したと云えない?とても乱暴な云い方だけど。
自分が解らないから居られる、解ったら居られない?
理屈かな、加藤!