徒然と」カテゴリーアーカイブ

備忘の青空1 武内

「カット、カット!」撮影現場の監督の声ではない。土方さんは時として妙に甲高い声になる。「憧れ」も度を越すと思い込みの一人歩きとなる。満艦飾に妄想された土方巽は「声は低いが、寡黙なヒトに違いない」「夫人は更に寡黙にして清楚!」などなど止まるところを知らない。若造にありがちなこうした百花妄想は回り道して現実への悲しいご帰還となる訳だ。四つ違いの私の姉は当時売り出し中のフランク永井といふ唄うたいをラジオに齧りついて入れあげた挙句、普及し始めたテレビジョンにそのフランク永井の姿を目撃するや、言下に言い放った「コイツはフランク永井じゃない!」。その「声」と「ツラ」との、どうにもこうにも埋め難い溝に身を引き裂かれた錯乱の一コマを憶い出す。その錯乱の姉も粛々と発育し、今や立派な社会人へと辿り着いた。

 土方巽は何を「カット、カット!」と叫んだのか?

「武さー、お前のプロフィールだか何だかの冒頭に、俺の『[肉体の叛乱]を観て衝撃を受ける』の後に『これなら俺にもヤレそうだ!衣装の発見』てのは何だよ!」ヤッベー!絶体絶命のピンチ! 誰が土方巽本人の眼に触れるなど想像しえたか。当然、眼に触れないと踏み、勢い込んだハッタリである。土方さんの前ではボケーと見とれるか、俯いてただただ話を伺うのが常だったが、この時ばかりは「俯き」が土下座寸前、あと一歩のレベルへと達していた。小さな酒の席での事。カラダを低く沈めてお膳に顎を載せるようにして下から上に睨め上げるような「違いますか?」の囁き、話しながら眼前に泳がせるように、そよがせるような手、空気に差し込むような、掴むような土方巽の指。書いてるうちに憶い出してくるものだ。この時、大事(こういふ場合に使う言葉?)には至らなかった。土方さんが噴き出す笑いを堪えて「カット、カット!」と云った『これなら俺にもヤレそうだ!衣装の発見』の一行は程なくプロフィールから外され、「土方巽[肉体の叛乱]を観て衝撃を受ける」だけが残った。    つづく

備忘の青空 武内

 誰に脅迫されてる訳でもないのに書かなきゃなど思うのはホームページなど作り、こんなコーナーなどがあり、ある事に脅迫されてるのかしらん? 自分の決めた事に決められる不便!

 うろ覚えなんだけど、確か「ボウキャクトハワスレサルコトナリ、ワスレエズシテ、ボウキャクヲチカウココロノサミシサヨ/忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の寂しさよ」と丸暗記されたラジオドラマ「君の名は」の冒頭ナレーションのフレーズだ。昭和20年代のまだ入学前の事、この放送時間に風呂屋は空になったといふ代物。無論、意味抜きの[聴き写され]になっている。数え上げれば切りない事だ「お富さん」の「イキナクロベニ、ミコシノマーツニ……」とか、滝廉太郎かな「荒城の月」の「ハルコウロウノ、ハナノエン……」とか。この[聴き写され]を土方さんは「聞こえたものは、聴きわけていたものであったのか……」と「病める舞姫」文中で軽く流している。後々この[聴き写され]が意味了解された瞬間にコトバは瓦解するけれど、瓦解しなけりゃ「知の産声」が上がらないところが「人間て悲しいね」になる。

 なんで、こんな書き出しになっちゃったんだろう?そうそう、これから書く事のタイトルを僕の稽古ノートの表紙から「備忘の青空」としようと決めた時かな。ああ!このへりくだり方!きっと死ぬまで土方に付きまとわれるんだろうな! イヤ!待てよっ、この「付きまとわれるんだろうな」といふ被害者意識がいかん!ここは一番土方巽のヒソミにならい「ゴドーを待ちながら」を指して先生「待っても来ない神なら首に縄つけてでも引きずり出せ」と仰ってた、同じ綴り方で土方さんをゴドーにし、この幻の縄のリードを締めたり、緩めたりの長さの手応えがコトバの遠近法となるやもしれぬ。

何も足さない、何も引かない 武内

何も足さない、何も引かない。何だかそんな境地に稽古が突入してきた。今までが大仰な身振り、立ち振る舞いだった訳でもないが、今、この言葉響いてる。何かやろうとする鼻息が見苦しく感じる。何かしても、しなくても大丈夫アンタ「居る」から。

三日間の観劇 武内

 珍しい事に三夜連続の観劇とあいなった。最後に観たオイディプスの櫻間金記さんや糸操り人形の田中純さんがイイ。カラダが鬱陶しくない、居なくて居てもいいような静かな隙間だった。やっぱ老人か、歳食わなきゃダメだな!

噤む かとう

武内さんへの返信 

たとえば「ひきこもり」の人が、ひきこもっていることに満足していれば問題ありませんが、それが、苦痛で、本当は外に出たいのに出られない、という場合、出られない理由の大きな一つとして、世間体を気にするからだ、という話を聞いたことがあります。
「関係性を脱出したと云えない?」誰が?誰との?
そもそも「私」というのが関係性の産物ですから、具体的な他人との関係を欠いた方が、仮想の関係性が肥大化する、ということがあるかもしれません。
「自分が解らないから居られる、解ったら居られない」というのはその通りだと思いますが、自分が他人に、それ以前に自分自身に、自分を説明し続けている、のではないだろうか。踊りにひきつけていえば、一生懸命自分を説明しようとしているように感じられる踊りはつまらないですね。
でもおそらく武内さんの思っている「落ち込み、ふさぎ込み、閉じこもりの価値」というのはあると思います。むしろ「噤む」に近いのかなあ?
よくダンサーの人が、舞台の上に身を「晒す」という言い方をしますが、舞台の上に身を「隠す」という踊りもあるんじゃないでしょうか。

かとう

私はでていく私のなかへ

落ち込み、ふさぎ込み、閉じこもり、といふのは関係性の上での自閉症状だけど、裏や奥や底の方から見て、関係性を脱出したと云えない?とても乱暴な云い方だけど。
自分が解らないから居られる、解ったら居られない?
理屈かな、加藤!